2020年02月08日

ボサノバ・レッスンのお知らせ

現在、下記のカルチャーセンターでレッスンを行っています。
体験レッスンは随時行っていますので、お気軽にどうぞ。

どちらも初心者歓迎、女性限定のグループレッスンです。
ボサノバの定番曲を中心に、ポルトガル語の発音、発声の基礎、
ボサノバの歴史や歌の背景などを学びながら
ギター伴奏に合わせてソロで歌うことを目指します。
3か月で2〜3曲前後レッスンのペースです。

体験レッスンは、いつでもお受けしています。
まずは1度、実際にボサノバを歌ってみませんか?
みなさんのご参加をお待ちしています。



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【セブンカルチャークラブ武蔵境】
〜JR中央線 武蔵境駅前 イトーヨーカ堂武蔵境店西館5F
 TEL 0422-31-4114

●講座名:〜女性のための〜 ボサノバ・ヴォーカル

●日程:月1回(第2日曜)
      
●時間:10:30〜11:45

●体験レッスンは有料です。
事前にセブンカルチャークラブ武蔵境まで、お電話でご予約をお願いします。
受講料など詳細ついては、お電話にてお問い合わせください。

●お申し込み、お問い合わせは:こちらまでどうぞ。



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【調布カルチャーセンター】
〜国領駅前 ココスクエア2F 京王線国領駅から徒歩1分
 TEL 042-443-2011

●講座名:ボサノバ・ヴォーカル

●日程:月1回(第4土曜) 
      
●時間:10:30〜12:00

◉体験レッスンは有料です。
前日までに調布カルチャーセンターまでお電話にてご予約ください。
受講料など詳細については、お電話にてお問い合わせください。

◉お問い合わせは:こちらまでどうぞ。

  

2020年02月07日

ボサノバ・ボーカル&ギター 個人レッスン

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ボサノバを歌ってみたい! 弾き語りしてみたい! 
大好きなあの曲を歌ってみたい!
もう歌っているけれど、ポルトガル語がもう少しわかったらいいな...等々、
個別のご要望に対応します。
まずはメールにてお問い合わせください。

◎レッスン内容:どちらか1つをお選びください
 1)ボサノバ・ボーカル
 ボサノバを歌うために必要なポルトガル語の読み方、発音、文法などの基礎、
 安定した発声法を学び、歌詞理解を深めながら
 ギター伴奏に合わせてソロで歌えるようにレッスンします。

2)ボサノバ・ボーカル&ギター(ギター弾き語り)
 クラシック・ギターの基礎から始め、ボサノバ・ギターの弾き方を学びます。
 歌もギターも初めての方は、最初はボーカルから始めることをおすすめしています。



◎レッスン日程(月2回)
水曜 または 金曜の午前中(詳細はお問い合わせください)
 
 
◎1レッスン50分



◎料金;入会金 3,000円
 1レッスン=5,500円(施設費、教材費込)



◎場所:若葉台コミュニティ・スタジオ
 京王線 若葉台駅より徒歩5分
(詳細はお申し込み時にご案内します)



◎体験レッスン:1,000円(お1人様1回のみ)
 初めての方は、まず体験レッスンにお越しください。
 ご予約はメールでどうぞ。



◎その他:
 ●悪天候、講師都合の場合のみ、振替レッスンをお受けします。
 ●誠に勝手ながら、受講は女性に限らせていただきます。
 ●受講時間の決定は、先決順といたします。
 ●お問い合わせいただいた時点で、その枠が予約中や決定となっている場合もありますが
  その際はご容赦くださいますようお願い致します。
 ●多くのボサノバ曲の譜面、音源を保有しておりますが、全てではありません。
  当方に用意がない曲については、譜面、音源は各自でご持参ください。
 



◎お問い合わせ、申し込みはこちら:
 mail◆akikoyanagsiawa.com(◆を@に変更して送信お願いします)

→お問い合わせには、必ずお返事をいたします。
送信したのに3日以上返事がない場合には、何らかの事情により未達の可能性がありますので
恐れ入りますが、再送いただけますようお願い致します。

2020年02月04日

思い出のブラジル・リオ滞在記

私がホームページを始めたのは1996年。
最初はHTMLで書いていたくらい昔の話です(笑)。
その後、2006年に現在のブログに移行し、至ります。

時は流れ、今年中にホームページを置いていたサーバーのサービスが終了するため、
ホームページに掲載していたエッセイの一部を、こちらのブログに引っ越しすることにしました。

手始めに、2003年当時メルマガで「ブラジル物語」と題し、配信もしていた
私のブラジル・リオ滞在記 全5話を、あらためて掲載したいと思います。
どれもかなり大作なので、数回に分けてUPします。

お楽しみいただければ幸いです。

異国で誕生日

リオに居た約4カ月、私はある家庭にホームステイをしていた。
その間に私の誕生日があったのだが、まだ生活に慣れていなかったこの頃は、
正直それどころじゃなかったという事もあり、日本から時差で1日早く届く「おめでとうメール」で、
私は充分満足していたのだった。

私のステイ先は、コルコバードというリオの象徴:キリスト像が立つ丘に程近い
閑静な高級住宅街のマンションで、ホストファミリーの構成は両親に医大生の21歳の娘、
そして月曜から金曜まで住み込みしているお手伝いさんの4人。

リオに着いたばかりの頃、話のついでにホストマザーに「誕生日はいつ?」と聞かれて、
2月4日だと言ったら、
「あら、(娘の)サマンタが7日だから近いわねー」なんて話した程度で、
まさかホストマザーが覚えているとは思わなかったのだ。

音楽修行でリオへ乗り込んだ私だが、語学の勉強も大切なその一部。
最初の1カ月間、私は大学の短期語学講座に通っていて、毎朝7時に起きて、9時から午後1時まで
ポルトガル語の授業を受けるという、ここ何年もないくらいのかなり規則正しい生活を送っていた。
(大学が終わった後は、他のエッセイのように、昼まで寝ていることもあったが...)

やっと帰宅しても、絶対終わらないほどの宿題、復習、予習に追われ、
私、人生でこんなに勉強したことがあるかしら?というほど夜中まで勉強する毎日。
大学がかなりハードであったことは、別の機会に譲ることにして、
この日もいつものように大学へ行くために7時に起床、台所でお手伝いさんに紅茶を入れてもらい、
さあ、座って食べよう!と思ったら、いきなり部屋の電気が消えた。

こちらに来る前、友人に「リオは停電が多いよ、懐中電灯と蝋燭は必需品!」
と言われていた私は、冷静に「ああ、いよいよ来たか」と思った。すると急にリビングの方から

「Parabens pra voce~」(ポルトガル語で”Happy Birthday to you”)

と歌いながら、火を灯した蝋燭を立てたパウンドケーキの皿を持ったホストマザーが、
踊るようにキッチンへ入ってきたのだ!

こんな朝っぱらからケーキで祝われるとは誰が予想するだろうか? だいたい用事がない時は、
ホストマザーも私が大学へ行く時にはまだ寝ていて、見送ってもらったことなど数回もないのだ。
とはいえ、嬉しいことには違いない。

さすが外国人はやることが違う、などと変な感動を感じながら、とにかく「ありがとう!!」を連発して
蝋燭を吹き消し、早速ケーキを切って、ホストマザーとお手伝いさんと3人で食べたのだった。

ちなみに、娘は大学のテスト期間で朝7時前にでかけてしまっていて、
ホストマザーはそのことを私に詫びていた。

しかし。怒濤の誕生日はまだまだこれからだったのだ。
この時の私は、そんなことを知る由もなかったが...

ケーキを食べた後、ホストマザーは
「今日はみんなで夕食を食べましょう。7時には家に帰ってきてね」
という。
「みんなで夕食」の言葉に、誰かが誕生日の時はここの家庭もみんなで食事するんだ!と嬉しくなって、
「うんうん」と私は返事をした。

すべてのブラジル家庭には当てはまらないのだけど、うちのステイ先の場合、
毎日の食事は各自勝手きままということになっていて、家族で食卓を囲むというのは、
休みの日の午後、たま~にくらい。
普段は、朝も昼も夜も、食べたい時に台所へ行って、お手伝いさんに「食べたい」と言えば
何かが出て来るという仕組みになっていた。

最初のうちは家族の会話もなく、たったひとりで食事することに、なんとなく寂しさを覚えた私だったが、
なんせ全神経を集中して会話している毎日の生活は、日本に居る時の5倍は疲れて、
だんだん食事の時くらい食事だけに集中したいと思うようになったので、ちょうどよかったのである。
それに、部屋ではたいていテレビをつけていたし、(私の部屋にはテレビも専用電話もあって、
まるでホテルみたいだった)ヒヤリングの勉強は続行できた。

そして、彼女はさらに
「これから姉の家に行く用事があるから、一緒にタクシーで途中まで行きましょう」
と言う。お姉さんは私の行っている大学のすぐ近所に住んでいるので、
私を途中でおろしてあげるからということなのだ。

で、何時に出る?と聞くので、8時半と言うと
「それじゃちょっと遅いわ」と言うので8時15分にして、一緒にタクシーに乗って大学へ向かった。

誕生日はタクシー通学!朝からケーキも食べたし...と気分よく教室に入って、
授業が始まるのを待っていると、教室に入ってくるクラスのみんなが次々と
「今日、誕生日でしょ?おめでとう!!」
って言ってくれて、またびっくり。

実は、ちょうど前日の授業で誕生日の話題がテキストにのっていて、
先生が「誰か今月に誕生日の人はいない?」と聞いたので、私が明日だと言ったら、
「じゃあ、明日はまずアキコにハッピーバースデーの歌を歌わなくちゃね」
と言っていたのだ。
その時は「そう言ってるだけかも」とクールに思っていたのだが、
なんと、みんなはちゃんと覚えていたのである。

よくわからないけど、外国人にとっては、やっぱり誕生日って特別なのかな...
日本だったらそんなに騒がないよなーと思いながら、みんなに歌ってもらって、
授業の前に大騒ぎ。ドイツ人のクラスメートが、ちょうど持ってたのかチョコレートをくれて(笑)、
それでやっと授業が始まった。

そして、いつもの通りに1時間目が終わりにさしかかったころ、今度は突然教室のドアがバンッと開いた。
そこにはアメリカ人のアマンダ(ホストマザーの姉の家にステイしていて、私の友達でもある)が
大きなチョコレートケーキを持って

「Parabens, Akiko!!  Feliz aniversario!!(アキコ誕生日おめでとう!)」

とかなんとか言いながら入ってきたのだ! 
ちゃんと蝋燭には火もついていて、あまりの勢いにユラユラと炎が揺れていた。

これには、いったい何が始まったのかと、一瞬、先生もクラスメートも私も硬直。
しかし、みんなの適応力は素晴らしい。
あっという間に事態を把握した全員に囲まれ、歌を歌われ、火を吹き消させられ、
おめでとう!!と騒がれ、まだ(もうちょっと、あと5分くらいは)授業中なのに、
ケーキ切って食べようってことになった。

あの...いいんですか?と、当の本人は恐縮しているのだが、みんなはそんなことお構いなし。
どんどんケーキを切り分け始め、食べ出した。

しかしコレ、直径30センチはあるか?という巨大ケーキ。
クラスメートは12人。先生を入れても13人...
ホストマザーはいったい大学のクラスの人数を何人だと思ったのだろう?
甘いもの大好きのフランス人のおじさんや、バスケット選手のようなアメリカ人の男の子がいたって、
とても10数人で食べきれる量ではない。そこで、他のクラスの知り合いにも配ることに。

休み時間になってから、私は廊下に出て、友達を見つける度に
「ケーキがあるから、食べに来て!」
と呼んで、配りまくってやっと全部ハケたのだった。
すんごく甘いチョコレートケーキだったけど、とてもおいしかったことは言うまでもない。

ここで、勘の良い人はお気付きだろう。
朝、ホストマザーが姉の家に行く用事があると言っていた、あれは、このケーキを
大学へ行く前のアマンダを捕まえて「アキコの教室にケーキを持ってって!」と頼むためだったのだ。
そういえばタクシーに乗る時に、彼女は大きな箱を持っていた。
あれは、このケーキだったのだ...アマンダもこんな事を突然頼まれて、さぞかしビックリしただろう。

大学の後、私はセントロ(街の中心地)に用事があったので、そこへ寄った帰り道、
自分へのプレゼントとして靴屋でベージュのサンダルを買った。
ちょうどその頃、リオは夏のバーゲン期間で、ただでさえ日本より安くてかわいい品がもっと安くなっていた。
ブラジルは革製品が豊富。普段からバックや靴が大好きな私は、リオに居る間に、10何足の靴と、同じくらいバックも買った。
値段は日本の3分の1くらいだから、ついつい...
それだけ買ってもまだ安いので、またついつい...の繰返しである。
リオは買い物天国でもあった。おかげで帰りは大変な荷物になったのだが、
モードは決して日本と相違ないので後悔はしていない。

家に帰ったのは4時頃だった。お礼を言おうとしたが、ホストマザーは外出中。
7時までにはまだ時間がある。
その時、リオで唯一、日本人の友人Iちゃんを、今日の夕食会に誘ってみようと思いついた。
私の誕生日だし、ホストマザーはIちゃんに会ってみたいと言っていたし、
なにより友達が家に来るのが大好きな人だから、事後報告でも問題はないだろう、と思ったのだ。

そこでIちゃんに電話をして
「まだホストマザーには聞いてないけど、たぶん大丈夫だから、うちに今晩、夕食を食べにこない?」
と言ってみた。すると、彼女はちょっと口籠りながら、
「あのー、言いにくいんですけど、誘っても良かったかとか、ホストマザーには
 聞かないほうがいいと思いますぅ...」
と言う。

 なんでかな?変なこと言うなと思ったら、
「ホストマザーには言わないでくださいね、昨日電話した時に、アキコさんにかわる前、
 明日アキコのパーティをするから、内緒で来いって既に言われてるんです。
 で、私は今日行くつもりでいるんですよ。本当は、朝の7時半に来いって言われたんですけど、
 さすがにそれは無理なので断ったんです」

これにもまたビックリ。今日はいったい何度ビックリすればいい1日なんだろう。
私にかかってきた電話を取次ぐ間にそんなことを頼んでいたなんて!
いや~朝、彼女が家に来てたら、もっと驚いていただろうなぁと思いつつ、
せっかくのホストマザーの企てを台無しにしないように、今夜は会ったら2人でびっくりするフリを
しようってことにして、電話を切った。

しばらくすると、ホストマザーが帰ってきた。私は部屋から飛び出して、
「ケーキありがとう!皆でびっくりしましたよ!!」
と言うと、彼女はものすごく満足そうな顔して微笑んだ。

ケーキはとても大きかったから、他のクラスの子とか、先生にまで配りまくって
みんなで食べたんだと伝えると、
「そういうのがコミュニケーションにもなるから、いいでしょう?」。

実は、大学のクラスは外国人向けポルトガル語学科で、行って初めて知ったのだが、
生徒の8割はアメリカ人。
アジア人は極めて稀、だいたい1期に1~2人である。

それは良いのだけれど、予想外だったのは、ここはブラジルなのに
大学では英語の方が頻繁に飛び交っていたことだった。
ポルトガル語ならばなんとかなる私も、英語ではお手上げだ。
よって、英語ばかり話す学生たちに馴染めず、私は最初かなり苦労した。

ホストマザーはそれをわかっていて、わざとこんなハデなことをやったのかな...と思った。
だとしたら、なかなかやるなぁ!!と、なおさら感激だったのだ。

さて、7時になって、パーティにIちゃんが登場。
お約束で2人で驚いてみせたので、ホストマザーはご満悦の様子。
その後、今日大活躍してくれたアマンダと、アマンダのステイ先の家族
(ホストマザーの姉の旦那さんと息子と娘とその恋人)達も来てくれた。
みんな、私には内証でホストマザーに呼び集められたのだ。

お手伝いさんがいろいろなごちそう作ってくれて、みんなで食べながら談笑。
そしてもちろん、私もギターや歌を披露、みんなとも歌った。

ブラジルの家庭料理は特別、世界で有名ではないけれど、私はかなりおいしいと思う。
今回は食事の量が少なくてひもじい思いをした学生時代のニュージーランドでのホームステイと違って、
「アキコはやせ過ぎ。もっとたくさん食べなさい!」
とみんなに言われ続けて、お腹いっぱいの毎日だった。

料理が食べ終わったら、なんと本日3番目のケーキが登場!!
これもまたでっかい... ブラジルにはもっと小さいサイズというのは存在しないのかもしれない。
今度はココナッツとパイナップルソースのケーキでさらに甘かった...

しかし、みんなはそれにアイスクリームと、特製チョコレートソース(ステイ先のオリジナルで、
溶かしたチョコレートにコンデンスミルクを混ぜてあり、このソースには”冗談”という名前がついていた。
おいしいけれどその名の通り、冗談抜きに甘いソースで、私はパンにつけて食べた方がおいしいと言って
そうしていたが、家族は「ケーキの方がいい」と言っていた)をかけて食べるのだから、脱帽だ。

食べながら飲むガラナやコーラが甘く感じないくらいで、人種によっての味覚の違いは確かに存在すると、
私は確信したものである。
そうこうして、パーティは夜中の1時にお開きとなった。1日に3種類ものケーキを食べた誕生日は、
生まれて初めて。最初で最後かもしれない。

そして、誕生日となれば、みんなが聞くのは
「それで、アキコは何歳になったの?」という事。

まぁ、誕生日じゃなくとも、ブラジル滞在中に聞かれた質問No.1はまさにこれだった。
よく、外国人は女性の年齢を聞かない(逆に聞いてもいけない)というけれど、それは嘘。絶対嘘だ!
 もしこれが通用するとしたら、本当に”見るからに年をとった女性に対してだけ”だろう。

聞かれたら、言いたくなくてもそうもいかない。
最初は正直に本当の年齢(当時、30歳を過ぎていました)を言っていたのだが、
あまりにも皆が仰け反って驚くので、だんだん言うのが嫌になってきた。
なぜ驚くか?...それは、彼らが私のことを、ものすごく若いと思っているからである。
最高記録はなんと、17歳だった(これ、ホント!)。

日本人は西洋人よりも若く見られるのは、一般的なことだ。
しかし私の場合、哀しいかな言葉が流暢でないいことも手伝う?のか、化粧品の宣伝文句じゃないが、
いつもだいたい10歳は下に見られた。

逆に、まだ20歳そこそこの学生達が自分より年上のように大人っぽくて、
大学ではお互いにお互いの年齢を聞いては驚きあうという状況であった。
人生のうちでこんなに大勢の人々に若者に思われたことはないので、
最初は嬉しくて舞い上がっていたが、続くとなんでもウンザリするもの。
そこで私は途中から、10歳サバをよんで相手に伝えていたくらいである。

しかし、こうしてほぼ毎日、若い若いと言われ続けた結果、良いか悪いか、私はすっかり若者気分に。
いわば、洗脳されたのだ。
帰国してからも、以前に比べて実年齢よりも若く見られることが多くなった。
逆に、いつも周りで「もう年だからかなぁ」「若くないから、ダメ」などと言われ続けていたら、
本当にそうなってしまうだろう。暮らす環境で、人は変わるものなのだ。

加えて、外国人は誉め上手。
私はおだてられて木に上るブタのように、リオに居る間にすっかりおめでたい人間になってしまったようだ。
しかしながら喜んでばかりもいられない。若い=未熟ともとれる訳で、
要は、”若く気持ちを保つ”のが重要なこと。
私がリオで出会ったミュージシャンたちは皆、若々しく、素敵に年齢を重ねていた。見習わねば...

ということで、私の人生観までもを変えた?!人生最大のビックリ誕生日はこうして過ぎた。
1つ1つはそんなに大したことではなく、それほどお金もかかっていないし、高価なプレゼントもない。
でも、溢れる程の心がこもっていた。

その後、2月7日のサマンタの誕生日には、大学の試験のために早朝に登校する彼女に合わせて
家中が事前に起こされ、朝7時にパーティが決行された。
私の普段の考えでは、4日と7日なら、2人まとめて...となりそうだが、そういうことはしないらしい。
ちゃんと、1人1人をお祝するのがポリシーのようだ。

1つ目の朝のオレンジ味のパウンドケーキと、3つ目のココナツケーキの3分の1は
私が1人で3~4日かけて食べた。
(リオは暑いからか、私は帰国するまでに、日本では絶対ありえないような
甘~い甘いケーキが大好きになってしまったのである)。
ブラジルでの誕生日。それはやっぱり豪快だった。

ボサノバの神様

ジョアン・ジルベルトは御歳72、ボサノバの神様と言われる。

その通り、彼があのバチーダ(リズム)を作りだし、あの歌い方を編み出し、
あのハーモニーを紡ぎだした張本人なのだ。
それにアントニオ・カルロス・ジョビンとヴィニシウス・ヂ・モライスが加わって、
「ボサノバ」というジャンルがこの世に確立、登場したと言われている。

残念ながらジョビンやヴィニシウスはすでに他界しており、ジョアンは唯一の生き残りでもある。
しかも、普段はめったに人とは交流せず、世捨て人のような生活をしていて、
ライブもそう頻繁にはやらないし、レコーディングも10年に1度だったりする。
マスコミが嫌いで、一切の取材も受けない。
だから彼がいったいどこでどういう生活をしているのかは、ほとんど知られていないというのが実情だ。

たくさんのボサノバ・アーティストが来日する今日、いつかは彼も来るのでは...という
大勢のボサ・ファンの期待をよそに、ジョアンはずっと来日しなかった。

アメリカやヨーロッパではわりとツアーをやっているとはいっても、その情報を事前に掴んで、
チケットを入手して...となると、一大事。
突然決まるスケジュールに合わせて仕事を休んだりするのは、普通はなかなかできることでもない。
こうして、「早くしないとジョアンも歳だし...」と色々な人に言われつつも、
ジョアン・ファンは皆、ヤキモキするしかなかったのだ。

毎年、「今年は来るかも?」という噂が飛び交うのだが、湧いては消え、ふくらんではポシャる、の繰り返し。
一説には元妻のアストラッド・ジルベルト、ミウシャ、そして娘のベベウを日本に呼んで手厚くもてなし、
廻りから「日本はいいよ!」と吹き込ませているとかしてないとか...
世界でも(本国ブラジルよりも)有名なボサノバ・フリークの地・日本にジョアンが来ないなんて!
ジョビンだって1度は来たのに!! しかし神様の心はなかなか動かせず...
今回の来日は、半ばあきらめかけていた先の朗報だった。

この日本公演より1歩早く、私は2003年4月、ブラジルのサンパウロで初めてジョアンのライブを観て来た。
それまで、私は”動いているジョアン”を観たことが一度もなかったから、サンパウロへ向かう飛行機の中から、もう夢うつつ。

だって、創始者が生きている音楽というのも、そう多くはないだろう。
なんとかして、ライブを観たい、私の人生を変えた音楽を産み出した人の演奏をこの目で見てみたい!
...そう思い続けてきたのだ。
この念力が通じたのか、彼がサンパウロでライブを行ったのは、ビザを延長し決めた帰国日の1週間前だった。

しかし。
「ジョアンのライブを観に行くの!」
と、狂喜乱舞して騒ぐ私に対して、ブラジル人は往々にして冷ややかだった。

日本の友人たちが、こぞって羨ましがったのとは対照的である。
なぜなら、驚いたことに、本国ブラジルではジョアンは私が思うほど崇拝されていなかったからだ。
リオのライブハウスやCDショップで出会った人たちに
「君は、どのアーティストが一番好きなの?」
と聞かれて、私がジョアンの名を上げると、彼らは決まってこう言った。

「彼は作曲家じゃないだろう? 他の人はいないの?」
日本ではこんな事を言われたことは一度もない。
ましてや、作曲家じゃないから、なんて... そんな失礼な!
彼はボサノバの創始者よ!たった1人しかいない、素晴らしいアーティストじゃないの!!

ジョアンは優れたアレンジャー(編曲者)。
ボサノバになる曲を見つけてきては、徹底的にハーモニーを研究して、どんな曲もボサノバにしてしまう。それは作曲家と同じくらい素晴らしい才能だと私は思う... こう言いたいのは山々なれど、
私のポルトガル語能力では、通じたのはわずか10分の1かそこらが限界だろう。
とうてい彼らにはわかってもらうことができず、私は、
「あとは...ジョビン」と答えて、
「そうか、彼の曲は素晴らしいよね!」
という満面の笑みに迎えられるのだった。

彼らの尊敬に値する”アーティスト”というカテゴリーは、ジョビンやカエターノ・クラスの
”シンガーソングライター”たちだけを指すものらしい。
誤解を招かないように付け加えておくが、私はもちろん、ジョビンもカエターノも大好きである。
でも、ジョアンに対する尊敬度も、また特別なものなのだ。
ひとつ感心したのは、多くのブラジル人たちが「ジョアンは作曲家じゃない」
ということをちゃんと知っていたことである。

確かに、ジョアンはわずか数曲しか書いていないし、それらは普段彼が演奏している複雑なコード進行の
曲にくらべると、易しくわかりやすい曲が多い。
意外な気もするが、一応、音楽家の端くれとしての意見を述べさせてもらえるならば、曲を書かない
(あるいは書くのをやめた)気持ちもわかる気ははする。

なぜなら、作曲作業と歌手活動、編曲作業を同時にやるのはとっても大変だからである。
何か1つだけだったら、それに専心できる分、3倍追求できるのだ。
だからこそ、ジョビン達が素晴らしいのはなおさらなのだが...

音楽にそれほど近しい生活をしてない人たちのジョアンに対する認識は、さらにひどかった(苦笑)。
私がリオでホームステイしていた家庭のホストマザーは、
「ジョアン・ジルベルト? あら、まだ生きてるの?」
と言っていたし、ホストファザーにいたっては
「それは誰だ?」という始末。

大学で一緒だったアメリカ人たちは、
「ボサノバはジャズを真似したんだ」「ブラジル音楽はアメリカ音楽が原点だ」
と真顔で言っていた。

なんてことだろう!!ブラジルに来たのに、ブラジル人とも、ブラジルに居る他の外国人とも感覚が違うのだ。
日本に居た時の方が、ボサノバについても、ジョアンについてももっと情報があるし、気持ちを分け合えるなんて...

ボサノバを深めようとしてリオに来た私だが、生活し始めてすぐに、現実を知ることになった。
淡い幻想はガラガラと崩れたという気がした。
それは、4年前に初めてリオを訪れた時にも感じていたことではあるが、実際に生活して、
自分がリオの音楽舞台に足を踏み入れてみて、さらに確信へと変わったのだ。

残念ながら、ボサノバはもう、リオでは生きていない。ごく一部の人達が今もやってはいるが、
主流はMPB(ブラジル・ポピュラー・ミュージック)である。

日本でこんなにボサノバが受け入れられているということを知ったら、
ブラジル人はさぞかし驚くだろうなぁ...ブラジルでは完全に過去の音楽なのだから。

しかし、歌舞伎が大好きで日本へ来た外国人がいても、私は何を聞かれてもわからない。
自国の文化とは灯台元暗しなものだから、仕方ないのだ。
ボサノバ、ボサノバと騒ぐ私だって、邦楽はてんでダメで、邦楽器は何も弾けない。
お茶や花だって正式に習ったことはないし、習字も大嫌いだったし、今になってみると、
三味線やお琴くらいやっておけばよかったなぁ...とちょっぴり後悔。
異国で知る自国の良さとは、まさにこのことだろう。

そんな中、リオに来て1カ月ほど経ったある晩、夕食を食べようと台所に居た私は、
「アキコ、アキコの好きなボサノバの歌手ってなんていう名前だっけ?」
と、部屋に居たホストマザーに、大きな声で呼ばれた。

うーん、私があれだけ言っていても、やっぱり名前もちゃんとは覚えられないらしい...と思いながら、
「ジョアン・ジルベルト~」
と答えつつ、冷蔵庫からトマトのリコッタチーズチーズ詰め(お手伝いさんが作っておいてくれる
ホストファミリーの常備食の1つで、オリーブオイルをかけてを食べる。
オレガノが利いていて、おいしい)を出していると、彼女は驚くような事を言った。

「その人が、テレビに出てるわよ」。
何?! ジョアンがテレビに出てる?!
私はトマトをほっぽり出して彼女の部屋に飛んで行った。
ジョアンがテレビに出るなんて、何かの間違いじゃないの?
まだ信じられずに、ホストマザーの部屋へ駆け込むと、テレビから彼の歌声が流れていた。

それは、「SAMPA」という曲のビデオクリップだった。
あぁ、やっぱりインタビューとか音楽番組じゃないんだ...
ちょっとがっかりしたものの、そうは言っても、ジョアンのビデオクリップだって初めてである。
だいたい、ビデオクリップを撮影していること自体が驚きに値する。
映像のジョアンは、最近の写真よりはかなり若く、なかなかの演技力だった。

食い入るように見る私に、
ホストファザーはベットでビールを飲みながら、呑気に
「この人は何? 有名な人?」...。

それを聞いたホストマザーは、
「もう、知らないの?この人は、ボサノバを創った人なのよ!ねっ」
と私に同意を求めながら、得意げに彼に説明し始めた。

実は、その何日か前に大学で1人20分程度の発表をする授業があって、
ホストマザーはその事前練習につき合ってくれていたのだ。
テーマは自分で決めてよかったので、もちろん”ボサノバ”。
それですっかり概要を理解していた彼女は、ホストファザーよりもだいぶ優位な立場だったのである。
おかげで、私はほろ酔い気分のホストファザーに1から説明するという大変な作業をせずに済んで、
助かったのだが。

こうして観た、たった数分のビデオクリップでさえ、私には感動ものだった。
かなり昔の映像でも、ジョアンがギターを弾いて歌っている。
その姿を観ることができたのだ。あぁ、これがライブだったら!!

...たった1本のギターの弾き語り。なぜにそんなに私がそれを追い求めるのか
は自分でもよくわからない。
でも、ライブへ行きたい!気持ちは、さらにこれで強くなったのだった。

この後の4月25日、26日の2日間、私はサンパウロの「New Tom Brasil」という会場で
ジョアンを観た。
8年前に少し離れた所にある「Tom Brasil」ができた時にも、こけら落としで出演したジョアンは、
今回「New Tom Brasil」の完成にあたり、再び最初の演目として登場することになったのだ。

これも1カ月以上前から噂はあったものの、なかなか詳細情報がわからなくて、
毎日、新聞「Folha de Sao Paulo」のHPをチェックしていたら、やっと公演の約2週間前に
その決定情報が!!

すぐに電話で問い合わせをしたところ、電話予約でクレジット・カード払いができるとのこと、
もちろんすぐに予約。
本当は、ブラジルで電話でカード決済をするのはちょっと勇気がいったのだが、この際、そんなことは言ってられない。

えいや!と思いで決行するに、新しい会場で予約システムがまだちゃんと稼動していなかったらしく、
電話予約にはなんと40分もかかった(涙)。
電話を切った時には、文字どおりクタクタ。
こんなに苦労したのに本当に取れてるのだろか...という一抹の不安がよぎる。
でも、行けばなんとかなるかも...とも思い、深く考えないようにしていたくらいだ。
(この頃、私の思考回路は完全にブラジル方式になっていた)

そして、実際に当日会場へ着いたら着いたで、予約番号とチケットを交換するのに、受付は大混乱!
引き換えに恐ろしく時間がかかり、窓口のガラス窓をバンバン殴る人続出、ほとんどみんなケンカ腰で、
大袈裟じゃなく、暴動が起きそうな雰囲気だった。
やっとのことで会場へ入れたたら、わずか10分で開演。
せっかく全席テーブル席で、色々と食べることも楽しめたはずなのに、文字通り飲まず喰わずでショーは始まったのだった...

そんなことは知ってか知らずか、当のジョアンは、ギターを片手にニコニコして舞台に登場した。
気難しそうな偏屈オヤジを想像していた私には、これがまず衝撃だった。

そこから約2時間半、彼は水も飲まずに歌い続けた。
途中、観客呼び掛けに答えたり、みんなが口々に叫ぶ曲名をウンウン、とうなずきながら聞いて
その中からの1曲を歌ったり(時々、聞いていたにもかかわらずぜんぜん別の曲を歌いだすことも...)、
初日は5弦がボンボンいってしまうのが気に入らず、何度か音にクレームをつけてはいたけれど、
ユーモアを交えてのMCもふんだんにあって、始終楽しそうだっだ。

...イメージしていた人とだいぶ違う。
この人、マスコミが嫌いなだけで、本当に音楽が好きで、ボサノバが好きで、
ただただそれだけなんだなぁとつくづく実感したのだった。

「ジョアンを最初に観た時は、泣いたよ」
と、私と同じジョアン狂いのみなさんからも言われていたため、覚悟しては行ったのに、
始めはなんだか夢見心地で、涙どころじゃなく、本当に、本当に今、あのジョアンが
目の前で歌ってるんだ...と何度何度も自分言い聞かせていくらい。

自分が歌った訳でもないのに、所々記憶がないほどだ(寝てたんじゃないですよ、念のため)。
さすがに、初日のラストに「イパネマの娘」を聴いた時にはボロボロ涙が... 
「これで悔いなく死ねる」。それが私のジョアン初観覧の感想である。

こうして念願叶った私は、5月に帰国。
実は、この前に「どうも今回は本当にジョアンが初来日するらしい」という噂を
ブラジルで聞いていたので、日本へ降り立った私は、まずはそれを確かめたい気持ちでいっぱいだった。
もし本当だったら、またジョアンが観られるのだから!
今年はなんていう当たり年だろう。


さすがに5月では確信は得られなかったが、そのうちそれは事実だと判明。
新聞にもジョアンの写真が大きく掲載されるようになり、あちこちで
「ほら、えーと、なんとかっていうボサノバの偉い人が来るんでしょ?」
と色々な人に言われるようになった。
普段ボサノバなんてよく知らないうちの両親までもが、私が遊びに行くと、
「これ、とっといたよ」と言って、切り抜いた新聞の記事をくれたりした。

多くの人に驚かれたのは、私が全公演4日間を観に行くということだった。
「だって、全部一緒でしょ?」
「こんなおじいさんの歌に1日12000円も払うの?」
「もうブラジルで観たんだから、いいじゃない」...

みんなの顔には思いきり「もったいない!」と書いてあった。
正直言って、私だって最初は財布と相談してどうしようかと思ったのだ。
でも、サンパウロで観た限りでは、2日間、内容は微妙に違っていたし、その日のコンディションや
観客との相性もある。
それに、もしかして途中でなんらかの事情でジョアンが帰国してしまったら、
チケット代金が払い戻されたとしてもそれでは精神的に気がすまない。

どうしても後悔したくない気持ちが強くて、私は散財を覚悟したのだ。
いいや、私にとっては散財ではない。一番のお手本が観られるのだから、これは立派な授業料。
技は教えてもらうもんじゃない、見て盗め!なのだから、うん。

しかし、音楽仲間でもそうそう全日行くという人は見当たらず、毎日違う友人
を誘って行くことにして、チケット手配も完了。あとは当日を待つのみである。。

日本公演の詳しいライブ・レポートは私の別エッセイを参照していただくとして、観客
・(おそらく)関係者一同、肩が凝るほど緊張した1日目、完璧な演奏の2日目、
一番の盛り上がりだった3日目、締めくくりにふさわしい盛り沢山な4日目と、
どの日も素晴らしく、感動的なライブだった。

観終わってから数日は、放心状態。
お手本が素晴らしすぎて、「がんばろう!」と奮起するどころか、自分でギターを弾くのが嫌になり、
ボーッとしていた。
耳にはまだ、あの完璧な音が残っている...
自分の歌やギターを聴いて、それを台なしにしたくなかったのだ。

「ジョアンを最初に観る時人は、夢うつつ、あるいは放心状態、または感涙にむせぶ、腰が抜ける...
といった状態になるのよ」
と、ジョアンを知らない友人に宛てて、その素晴らしさを書いたメールを読み直し、
私は自分で笑ってしまった。

これじゃまるで妖怪である。でも、ある意味、彼は妖怪なのかも。
何をしでかすかわからないけど、たった1人しかいない才能の持ち主であり、天才であり、ボサノバの神様。
それを世界中の人が受け入れてしまうのだ。

最終日には、当時、私のポルトガル語の先生だったブラジル人女性と観に行った。
先生は、この日初めてジョアンのステージを観たのだが、帰り際に
「彼はかたつむりみたいな人ね」と言っていた。

シャイで、マイペース。壊れやすくて、繊細で、突然自分の殻に閉じこもってしまうことがある...
なるほど、本当にかたつむりみたい。なんだか、ジョアンにぴったりだな、と思った。

ボサノバの神様は、日本に来て何を思っただろう。
ラストの日、「みなさんの気持ちは私に届いたよ、ありがとう日本。」
というメッセージを、私たちにくれたジョアン。

私はこれからも、決して掴まえることのできない、天高く流れる雲を追かけるように、ボサノバを求めて行くだろう。
それはどこまで行っても、手が届くことはないかもしれないけれど。。

「ボサノバの神様」2003年

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