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2020年02月04日

思い出のブラジル・リオ滞在記

私がホームページを始めたのは1996年。
最初はHTMLで書いていたくらい昔の話です(笑)。
その後、2006年に現在のブログに移行し、至ります。

時は流れ、今年中にホームページを置いていたサーバーのサービスが終了するため、
ホームページに掲載していたエッセイの一部を、こちらのブログに引っ越しすることにしました。

手始めに、2003年当時メルマガで「ブラジル物語」と題し、配信もしていた
私のブラジル・リオ滞在記 全5話を、あらためて掲載したいと思います。
どれもかなり大作なので、数回に分けてUPします。

お楽しみいただければ幸いです。

異国で誕生日

リオに居た約4カ月、私はある家庭にホームステイをしていた。
その間に私の誕生日があったのだが、まだ生活に慣れていなかったこの頃は、
正直それどころじゃなかったという事もあり、日本から時差で1日早く届く「おめでとうメール」で、
私は充分満足していたのだった。

私のステイ先は、コルコバードというリオの象徴:キリスト像が立つ丘に程近い
閑静な高級住宅街のマンションで、ホストファミリーの構成は両親に医大生の21歳の娘、
そして月曜から金曜まで住み込みしているお手伝いさんの4人。

リオに着いたばかりの頃、話のついでにホストマザーに「誕生日はいつ?」と聞かれて、
2月4日だと言ったら、
「あら、(娘の)サマンタが7日だから近いわねー」なんて話した程度で、
まさかホストマザーが覚えているとは思わなかったのだ。

音楽修行でリオへ乗り込んだ私だが、語学の勉強も大切なその一部。
最初の1カ月間、私は大学の短期語学講座に通っていて、毎朝7時に起きて、9時から午後1時まで
ポルトガル語の授業を受けるという、ここ何年もないくらいのかなり規則正しい生活を送っていた。
(大学が終わった後は、他のエッセイのように、昼まで寝ていることもあったが...)

やっと帰宅しても、絶対終わらないほどの宿題、復習、予習に追われ、
私、人生でこんなに勉強したことがあるかしら?というほど夜中まで勉強する毎日。
大学がかなりハードであったことは、別の機会に譲ることにして、
この日もいつものように大学へ行くために7時に起床、台所でお手伝いさんに紅茶を入れてもらい、
さあ、座って食べよう!と思ったら、いきなり部屋の電気が消えた。

こちらに来る前、友人に「リオは停電が多いよ、懐中電灯と蝋燭は必需品!」
と言われていた私は、冷静に「ああ、いよいよ来たか」と思った。すると急にリビングの方から

「Parabens pra voce~」(ポルトガル語で”Happy Birthday to you”)

と歌いながら、火を灯した蝋燭を立てたパウンドケーキの皿を持ったホストマザーが、
踊るようにキッチンへ入ってきたのだ!

こんな朝っぱらからケーキで祝われるとは誰が予想するだろうか? だいたい用事がない時は、
ホストマザーも私が大学へ行く時にはまだ寝ていて、見送ってもらったことなど数回もないのだ。
とはいえ、嬉しいことには違いない。

さすが外国人はやることが違う、などと変な感動を感じながら、とにかく「ありがとう!!」を連発して
蝋燭を吹き消し、早速ケーキを切って、ホストマザーとお手伝いさんと3人で食べたのだった。

ちなみに、娘は大学のテスト期間で朝7時前にでかけてしまっていて、
ホストマザーはそのことを私に詫びていた。

しかし。怒濤の誕生日はまだまだこれからだったのだ。
この時の私は、そんなことを知る由もなかったが...

ケーキを食べた後、ホストマザーは
「今日はみんなで夕食を食べましょう。7時には家に帰ってきてね」
という。
「みんなで夕食」の言葉に、誰かが誕生日の時はここの家庭もみんなで食事するんだ!と嬉しくなって、
「うんうん」と私は返事をした。

すべてのブラジル家庭には当てはまらないのだけど、うちのステイ先の場合、
毎日の食事は各自勝手きままということになっていて、家族で食卓を囲むというのは、
休みの日の午後、たま~にくらい。
普段は、朝も昼も夜も、食べたい時に台所へ行って、お手伝いさんに「食べたい」と言えば
何かが出て来るという仕組みになっていた。

最初のうちは家族の会話もなく、たったひとりで食事することに、なんとなく寂しさを覚えた私だったが、
なんせ全神経を集中して会話している毎日の生活は、日本に居る時の5倍は疲れて、
だんだん食事の時くらい食事だけに集中したいと思うようになったので、ちょうどよかったのである。
それに、部屋ではたいていテレビをつけていたし、(私の部屋にはテレビも専用電話もあって、
まるでホテルみたいだった)ヒヤリングの勉強は続行できた。

そして、彼女はさらに
「これから姉の家に行く用事があるから、一緒にタクシーで途中まで行きましょう」
と言う。お姉さんは私の行っている大学のすぐ近所に住んでいるので、
私を途中でおろしてあげるからということなのだ。

で、何時に出る?と聞くので、8時半と言うと
「それじゃちょっと遅いわ」と言うので8時15分にして、一緒にタクシーに乗って大学へ向かった。

誕生日はタクシー通学!朝からケーキも食べたし...と気分よく教室に入って、
授業が始まるのを待っていると、教室に入ってくるクラスのみんなが次々と
「今日、誕生日でしょ?おめでとう!!」
って言ってくれて、またびっくり。

実は、ちょうど前日の授業で誕生日の話題がテキストにのっていて、
先生が「誰か今月に誕生日の人はいない?」と聞いたので、私が明日だと言ったら、
「じゃあ、明日はまずアキコにハッピーバースデーの歌を歌わなくちゃね」
と言っていたのだ。
その時は「そう言ってるだけかも」とクールに思っていたのだが、
なんと、みんなはちゃんと覚えていたのである。

よくわからないけど、外国人にとっては、やっぱり誕生日って特別なのかな...
日本だったらそんなに騒がないよなーと思いながら、みんなに歌ってもらって、
授業の前に大騒ぎ。ドイツ人のクラスメートが、ちょうど持ってたのかチョコレートをくれて(笑)、
それでやっと授業が始まった。

そして、いつもの通りに1時間目が終わりにさしかかったころ、今度は突然教室のドアがバンッと開いた。
そこにはアメリカ人のアマンダ(ホストマザーの姉の家にステイしていて、私の友達でもある)が
大きなチョコレートケーキを持って

「Parabens, Akiko!!  Feliz aniversario!!(アキコ誕生日おめでとう!)」

とかなんとか言いながら入ってきたのだ! 
ちゃんと蝋燭には火もついていて、あまりの勢いにユラユラと炎が揺れていた。

これには、いったい何が始まったのかと、一瞬、先生もクラスメートも私も硬直。
しかし、みんなの適応力は素晴らしい。
あっという間に事態を把握した全員に囲まれ、歌を歌われ、火を吹き消させられ、
おめでとう!!と騒がれ、まだ(もうちょっと、あと5分くらいは)授業中なのに、
ケーキ切って食べようってことになった。

あの...いいんですか?と、当の本人は恐縮しているのだが、みんなはそんなことお構いなし。
どんどんケーキを切り分け始め、食べ出した。

しかしコレ、直径30センチはあるか?という巨大ケーキ。
クラスメートは12人。先生を入れても13人...
ホストマザーはいったい大学のクラスの人数を何人だと思ったのだろう?
甘いもの大好きのフランス人のおじさんや、バスケット選手のようなアメリカ人の男の子がいたって、
とても10数人で食べきれる量ではない。そこで、他のクラスの知り合いにも配ることに。

休み時間になってから、私は廊下に出て、友達を見つける度に
「ケーキがあるから、食べに来て!」
と呼んで、配りまくってやっと全部ハケたのだった。
すんごく甘いチョコレートケーキだったけど、とてもおいしかったことは言うまでもない。

ここで、勘の良い人はお気付きだろう。
朝、ホストマザーが姉の家に行く用事があると言っていた、あれは、このケーキを
大学へ行く前のアマンダを捕まえて「アキコの教室にケーキを持ってって!」と頼むためだったのだ。
そういえばタクシーに乗る時に、彼女は大きな箱を持っていた。
あれは、このケーキだったのだ...アマンダもこんな事を突然頼まれて、さぞかしビックリしただろう。

大学の後、私はセントロ(街の中心地)に用事があったので、そこへ寄った帰り道、
自分へのプレゼントとして靴屋でベージュのサンダルを買った。
ちょうどその頃、リオは夏のバーゲン期間で、ただでさえ日本より安くてかわいい品がもっと安くなっていた。
ブラジルは革製品が豊富。普段からバックや靴が大好きな私は、リオに居る間に、10何足の靴と、同じくらいバックも買った。
値段は日本の3分の1くらいだから、ついつい...
それだけ買ってもまだ安いので、またついつい...の繰返しである。
リオは買い物天国でもあった。おかげで帰りは大変な荷物になったのだが、
モードは決して日本と相違ないので後悔はしていない。

家に帰ったのは4時頃だった。お礼を言おうとしたが、ホストマザーは外出中。
7時までにはまだ時間がある。
その時、リオで唯一、日本人の友人Iちゃんを、今日の夕食会に誘ってみようと思いついた。
私の誕生日だし、ホストマザーはIちゃんに会ってみたいと言っていたし、
なにより友達が家に来るのが大好きな人だから、事後報告でも問題はないだろう、と思ったのだ。

そこでIちゃんに電話をして
「まだホストマザーには聞いてないけど、たぶん大丈夫だから、うちに今晩、夕食を食べにこない?」
と言ってみた。すると、彼女はちょっと口籠りながら、
「あのー、言いにくいんですけど、誘っても良かったかとか、ホストマザーには
 聞かないほうがいいと思いますぅ...」
と言う。

 なんでかな?変なこと言うなと思ったら、
「ホストマザーには言わないでくださいね、昨日電話した時に、アキコさんにかわる前、
 明日アキコのパーティをするから、内緒で来いって既に言われてるんです。
 で、私は今日行くつもりでいるんですよ。本当は、朝の7時半に来いって言われたんですけど、
 さすがにそれは無理なので断ったんです」

これにもまたビックリ。今日はいったい何度ビックリすればいい1日なんだろう。
私にかかってきた電話を取次ぐ間にそんなことを頼んでいたなんて!
いや~朝、彼女が家に来てたら、もっと驚いていただろうなぁと思いつつ、
せっかくのホストマザーの企てを台無しにしないように、今夜は会ったら2人でびっくりするフリを
しようってことにして、電話を切った。

しばらくすると、ホストマザーが帰ってきた。私は部屋から飛び出して、
「ケーキありがとう!皆でびっくりしましたよ!!」
と言うと、彼女はものすごく満足そうな顔して微笑んだ。

ケーキはとても大きかったから、他のクラスの子とか、先生にまで配りまくって
みんなで食べたんだと伝えると、
「そういうのがコミュニケーションにもなるから、いいでしょう?」。

実は、大学のクラスは外国人向けポルトガル語学科で、行って初めて知ったのだが、
生徒の8割はアメリカ人。
アジア人は極めて稀、だいたい1期に1~2人である。

それは良いのだけれど、予想外だったのは、ここはブラジルなのに
大学では英語の方が頻繁に飛び交っていたことだった。
ポルトガル語ならばなんとかなる私も、英語ではお手上げだ。
よって、英語ばかり話す学生たちに馴染めず、私は最初かなり苦労した。

ホストマザーはそれをわかっていて、わざとこんなハデなことをやったのかな...と思った。
だとしたら、なかなかやるなぁ!!と、なおさら感激だったのだ。

さて、7時になって、パーティにIちゃんが登場。
お約束で2人で驚いてみせたので、ホストマザーはご満悦の様子。
その後、今日大活躍してくれたアマンダと、アマンダのステイ先の家族
(ホストマザーの姉の旦那さんと息子と娘とその恋人)達も来てくれた。
みんな、私には内証でホストマザーに呼び集められたのだ。

お手伝いさんがいろいろなごちそう作ってくれて、みんなで食べながら談笑。
そしてもちろん、私もギターや歌を披露、みんなとも歌った。

ブラジルの家庭料理は特別、世界で有名ではないけれど、私はかなりおいしいと思う。
今回は食事の量が少なくてひもじい思いをした学生時代のニュージーランドでのホームステイと違って、
「アキコはやせ過ぎ。もっとたくさん食べなさい!」
とみんなに言われ続けて、お腹いっぱいの毎日だった。

料理が食べ終わったら、なんと本日3番目のケーキが登場!!
これもまたでっかい... ブラジルにはもっと小さいサイズというのは存在しないのかもしれない。
今度はココナッツとパイナップルソースのケーキでさらに甘かった...

しかし、みんなはそれにアイスクリームと、特製チョコレートソース(ステイ先のオリジナルで、
溶かしたチョコレートにコンデンスミルクを混ぜてあり、このソースには”冗談”という名前がついていた。
おいしいけれどその名の通り、冗談抜きに甘いソースで、私はパンにつけて食べた方がおいしいと言って
そうしていたが、家族は「ケーキの方がいい」と言っていた)をかけて食べるのだから、脱帽だ。

食べながら飲むガラナやコーラが甘く感じないくらいで、人種によっての味覚の違いは確かに存在すると、
私は確信したものである。
そうこうして、パーティは夜中の1時にお開きとなった。1日に3種類ものケーキを食べた誕生日は、
生まれて初めて。最初で最後かもしれない。

そして、誕生日となれば、みんなが聞くのは
「それで、アキコは何歳になったの?」という事。

まぁ、誕生日じゃなくとも、ブラジル滞在中に聞かれた質問No.1はまさにこれだった。
よく、外国人は女性の年齢を聞かない(逆に聞いてもいけない)というけれど、それは嘘。絶対嘘だ!
 もしこれが通用するとしたら、本当に”見るからに年をとった女性に対してだけ”だろう。

聞かれたら、言いたくなくてもそうもいかない。
最初は正直に本当の年齢(当時、30歳を過ぎていました)を言っていたのだが、
あまりにも皆が仰け反って驚くので、だんだん言うのが嫌になってきた。
なぜ驚くか?...それは、彼らが私のことを、ものすごく若いと思っているからである。
最高記録はなんと、17歳だった(これ、ホント!)。

日本人は西洋人よりも若く見られるのは、一般的なことだ。
しかし私の場合、哀しいかな言葉が流暢でないいことも手伝う?のか、化粧品の宣伝文句じゃないが、
いつもだいたい10歳は下に見られた。

逆に、まだ20歳そこそこの学生達が自分より年上のように大人っぽくて、
大学ではお互いにお互いの年齢を聞いては驚きあうという状況であった。
人生のうちでこんなに大勢の人々に若者に思われたことはないので、
最初は嬉しくて舞い上がっていたが、続くとなんでもウンザリするもの。
そこで私は途中から、10歳サバをよんで相手に伝えていたくらいである。

しかし、こうしてほぼ毎日、若い若いと言われ続けた結果、良いか悪いか、私はすっかり若者気分に。
いわば、洗脳されたのだ。
帰国してからも、以前に比べて実年齢よりも若く見られることが多くなった。
逆に、いつも周りで「もう年だからかなぁ」「若くないから、ダメ」などと言われ続けていたら、
本当にそうなってしまうだろう。暮らす環境で、人は変わるものなのだ。

加えて、外国人は誉め上手。
私はおだてられて木に上るブタのように、リオに居る間にすっかりおめでたい人間になってしまったようだ。
しかしながら喜んでばかりもいられない。若い=未熟ともとれる訳で、
要は、”若く気持ちを保つ”のが重要なこと。
私がリオで出会ったミュージシャンたちは皆、若々しく、素敵に年齢を重ねていた。見習わねば...

ということで、私の人生観までもを変えた?!人生最大のビックリ誕生日はこうして過ぎた。
1つ1つはそんなに大したことではなく、それほどお金もかかっていないし、高価なプレゼントもない。
でも、溢れる程の心がこもっていた。

その後、2月7日のサマンタの誕生日には、大学の試験のために早朝に登校する彼女に合わせて
家中が事前に起こされ、朝7時にパーティが決行された。
私の普段の考えでは、4日と7日なら、2人まとめて...となりそうだが、そういうことはしないらしい。
ちゃんと、1人1人をお祝するのがポリシーのようだ。

1つ目の朝のオレンジ味のパウンドケーキと、3つ目のココナツケーキの3分の1は
私が1人で3~4日かけて食べた。
(リオは暑いからか、私は帰国するまでに、日本では絶対ありえないような
甘~い甘いケーキが大好きになってしまったのである)。
ブラジルでの誕生日。それはやっぱり豪快だった。

ボサノバの神様

ジョアン・ジルベルトは御歳72、ボサノバの神様と言われる。

その通り、彼があのバチーダ(リズム)を作りだし、あの歌い方を編み出し、
あのハーモニーを紡ぎだした張本人なのだ。
それにアントニオ・カルロス・ジョビンとヴィニシウス・ヂ・モライスが加わって、
「ボサノバ」というジャンルがこの世に確立、登場したと言われている。

残念ながらジョビンやヴィニシウスはすでに他界しており、ジョアンは唯一の生き残りでもある。
しかも、普段はめったに人とは交流せず、世捨て人のような生活をしていて、
ライブもそう頻繁にはやらないし、レコーディングも10年に1度だったりする。
マスコミが嫌いで、一切の取材も受けない。
だから彼がいったいどこでどういう生活をしているのかは、ほとんど知られていないというのが実情だ。

たくさんのボサノバ・アーティストが来日する今日、いつかは彼も来るのでは...という
大勢のボサ・ファンの期待をよそに、ジョアンはずっと来日しなかった。

アメリカやヨーロッパではわりとツアーをやっているとはいっても、その情報を事前に掴んで、
チケットを入手して...となると、一大事。
突然決まるスケジュールに合わせて仕事を休んだりするのは、普通はなかなかできることでもない。
こうして、「早くしないとジョアンも歳だし...」と色々な人に言われつつも、
ジョアン・ファンは皆、ヤキモキするしかなかったのだ。

毎年、「今年は来るかも?」という噂が飛び交うのだが、湧いては消え、ふくらんではポシャる、の繰り返し。
一説には元妻のアストラッド・ジルベルト、ミウシャ、そして娘のベベウを日本に呼んで手厚くもてなし、
廻りから「日本はいいよ!」と吹き込ませているとかしてないとか...
世界でも(本国ブラジルよりも)有名なボサノバ・フリークの地・日本にジョアンが来ないなんて!
ジョビンだって1度は来たのに!! しかし神様の心はなかなか動かせず...
今回の来日は、半ばあきらめかけていた先の朗報だった。

この日本公演より1歩早く、私は2003年4月、ブラジルのサンパウロで初めてジョアンのライブを観て来た。
それまで、私は”動いているジョアン”を観たことが一度もなかったから、サンパウロへ向かう飛行機の中から、もう夢うつつ。

だって、創始者が生きている音楽というのも、そう多くはないだろう。
なんとかして、ライブを観たい、私の人生を変えた音楽を産み出した人の演奏をこの目で見てみたい!
...そう思い続けてきたのだ。
この念力が通じたのか、彼がサンパウロでライブを行ったのは、ビザを延長し決めた帰国日の1週間前だった。

しかし。
「ジョアンのライブを観に行くの!」
と、狂喜乱舞して騒ぐ私に対して、ブラジル人は往々にして冷ややかだった。

日本の友人たちが、こぞって羨ましがったのとは対照的である。
なぜなら、驚いたことに、本国ブラジルではジョアンは私が思うほど崇拝されていなかったからだ。
リオのライブハウスやCDショップで出会った人たちに
「君は、どのアーティストが一番好きなの?」
と聞かれて、私がジョアンの名を上げると、彼らは決まってこう言った。

「彼は作曲家じゃないだろう? 他の人はいないの?」
日本ではこんな事を言われたことは一度もない。
ましてや、作曲家じゃないから、なんて... そんな失礼な!
彼はボサノバの創始者よ!たった1人しかいない、素晴らしいアーティストじゃないの!!

ジョアンは優れたアレンジャー(編曲者)。
ボサノバになる曲を見つけてきては、徹底的にハーモニーを研究して、どんな曲もボサノバにしてしまう。それは作曲家と同じくらい素晴らしい才能だと私は思う... こう言いたいのは山々なれど、
私のポルトガル語能力では、通じたのはわずか10分の1かそこらが限界だろう。
とうてい彼らにはわかってもらうことができず、私は、
「あとは...ジョビン」と答えて、
「そうか、彼の曲は素晴らしいよね!」
という満面の笑みに迎えられるのだった。

彼らの尊敬に値する”アーティスト”というカテゴリーは、ジョビンやカエターノ・クラスの
”シンガーソングライター”たちだけを指すものらしい。
誤解を招かないように付け加えておくが、私はもちろん、ジョビンもカエターノも大好きである。
でも、ジョアンに対する尊敬度も、また特別なものなのだ。
ひとつ感心したのは、多くのブラジル人たちが「ジョアンは作曲家じゃない」
ということをちゃんと知っていたことである。

確かに、ジョアンはわずか数曲しか書いていないし、それらは普段彼が演奏している複雑なコード進行の
曲にくらべると、易しくわかりやすい曲が多い。
意外な気もするが、一応、音楽家の端くれとしての意見を述べさせてもらえるならば、曲を書かない
(あるいは書くのをやめた)気持ちもわかる気ははする。

なぜなら、作曲作業と歌手活動、編曲作業を同時にやるのはとっても大変だからである。
何か1つだけだったら、それに専心できる分、3倍追求できるのだ。
だからこそ、ジョビン達が素晴らしいのはなおさらなのだが...

音楽にそれほど近しい生活をしてない人たちのジョアンに対する認識は、さらにひどかった(苦笑)。
私がリオでホームステイしていた家庭のホストマザーは、
「ジョアン・ジルベルト? あら、まだ生きてるの?」
と言っていたし、ホストファザーにいたっては
「それは誰だ?」という始末。

大学で一緒だったアメリカ人たちは、
「ボサノバはジャズを真似したんだ」「ブラジル音楽はアメリカ音楽が原点だ」
と真顔で言っていた。

なんてことだろう!!ブラジルに来たのに、ブラジル人とも、ブラジルに居る他の外国人とも感覚が違うのだ。
日本に居た時の方が、ボサノバについても、ジョアンについてももっと情報があるし、気持ちを分け合えるなんて...

ボサノバを深めようとしてリオに来た私だが、生活し始めてすぐに、現実を知ることになった。
淡い幻想はガラガラと崩れたという気がした。
それは、4年前に初めてリオを訪れた時にも感じていたことではあるが、実際に生活して、
自分がリオの音楽舞台に足を踏み入れてみて、さらに確信へと変わったのだ。

残念ながら、ボサノバはもう、リオでは生きていない。ごく一部の人達が今もやってはいるが、
主流はMPB(ブラジル・ポピュラー・ミュージック)である。

日本でこんなにボサノバが受け入れられているということを知ったら、
ブラジル人はさぞかし驚くだろうなぁ...ブラジルでは完全に過去の音楽なのだから。

しかし、歌舞伎が大好きで日本へ来た外国人がいても、私は何を聞かれてもわからない。
自国の文化とは灯台元暗しなものだから、仕方ないのだ。
ボサノバ、ボサノバと騒ぐ私だって、邦楽はてんでダメで、邦楽器は何も弾けない。
お茶や花だって正式に習ったことはないし、習字も大嫌いだったし、今になってみると、
三味線やお琴くらいやっておけばよかったなぁ...とちょっぴり後悔。
異国で知る自国の良さとは、まさにこのことだろう。

そんな中、リオに来て1カ月ほど経ったある晩、夕食を食べようと台所に居た私は、
「アキコ、アキコの好きなボサノバの歌手ってなんていう名前だっけ?」
と、部屋に居たホストマザーに、大きな声で呼ばれた。

うーん、私があれだけ言っていても、やっぱり名前もちゃんとは覚えられないらしい...と思いながら、
「ジョアン・ジルベルト~」
と答えつつ、冷蔵庫からトマトのリコッタチーズチーズ詰め(お手伝いさんが作っておいてくれる
ホストファミリーの常備食の1つで、オリーブオイルをかけてを食べる。
オレガノが利いていて、おいしい)を出していると、彼女は驚くような事を言った。

「その人が、テレビに出てるわよ」。
何?! ジョアンがテレビに出てる?!
私はトマトをほっぽり出して彼女の部屋に飛んで行った。
ジョアンがテレビに出るなんて、何かの間違いじゃないの?
まだ信じられずに、ホストマザーの部屋へ駆け込むと、テレビから彼の歌声が流れていた。

それは、「SAMPA」という曲のビデオクリップだった。
あぁ、やっぱりインタビューとか音楽番組じゃないんだ...
ちょっとがっかりしたものの、そうは言っても、ジョアンのビデオクリップだって初めてである。
だいたい、ビデオクリップを撮影していること自体が驚きに値する。
映像のジョアンは、最近の写真よりはかなり若く、なかなかの演技力だった。

食い入るように見る私に、
ホストファザーはベットでビールを飲みながら、呑気に
「この人は何? 有名な人?」...。

それを聞いたホストマザーは、
「もう、知らないの?この人は、ボサノバを創った人なのよ!ねっ」
と私に同意を求めながら、得意げに彼に説明し始めた。

実は、その何日か前に大学で1人20分程度の発表をする授業があって、
ホストマザーはその事前練習につき合ってくれていたのだ。
テーマは自分で決めてよかったので、もちろん”ボサノバ”。
それですっかり概要を理解していた彼女は、ホストファザーよりもだいぶ優位な立場だったのである。
おかげで、私はほろ酔い気分のホストファザーに1から説明するという大変な作業をせずに済んで、
助かったのだが。

こうして観た、たった数分のビデオクリップでさえ、私には感動ものだった。
かなり昔の映像でも、ジョアンがギターを弾いて歌っている。
その姿を観ることができたのだ。あぁ、これがライブだったら!!

...たった1本のギターの弾き語り。なぜにそんなに私がそれを追い求めるのか
は自分でもよくわからない。
でも、ライブへ行きたい!気持ちは、さらにこれで強くなったのだった。

この後の4月25日、26日の2日間、私はサンパウロの「New Tom Brasil」という会場で
ジョアンを観た。
8年前に少し離れた所にある「Tom Brasil」ができた時にも、こけら落としで出演したジョアンは、
今回「New Tom Brasil」の完成にあたり、再び最初の演目として登場することになったのだ。

これも1カ月以上前から噂はあったものの、なかなか詳細情報がわからなくて、
毎日、新聞「Folha de Sao Paulo」のHPをチェックしていたら、やっと公演の約2週間前に
その決定情報が!!

すぐに電話で問い合わせをしたところ、電話予約でクレジット・カード払いができるとのこと、
もちろんすぐに予約。
本当は、ブラジルで電話でカード決済をするのはちょっと勇気がいったのだが、この際、そんなことは言ってられない。

えいや!と思いで決行するに、新しい会場で予約システムがまだちゃんと稼動していなかったらしく、
電話予約にはなんと40分もかかった(涙)。
電話を切った時には、文字どおりクタクタ。
こんなに苦労したのに本当に取れてるのだろか...という一抹の不安がよぎる。
でも、行けばなんとかなるかも...とも思い、深く考えないようにしていたくらいだ。
(この頃、私の思考回路は完全にブラジル方式になっていた)

そして、実際に当日会場へ着いたら着いたで、予約番号とチケットを交換するのに、受付は大混乱!
引き換えに恐ろしく時間がかかり、窓口のガラス窓をバンバン殴る人続出、ほとんどみんなケンカ腰で、
大袈裟じゃなく、暴動が起きそうな雰囲気だった。
やっとのことで会場へ入れたたら、わずか10分で開演。
せっかく全席テーブル席で、色々と食べることも楽しめたはずなのに、文字通り飲まず喰わずでショーは始まったのだった...

そんなことは知ってか知らずか、当のジョアンは、ギターを片手にニコニコして舞台に登場した。
気難しそうな偏屈オヤジを想像していた私には、これがまず衝撃だった。

そこから約2時間半、彼は水も飲まずに歌い続けた。
途中、観客呼び掛けに答えたり、みんなが口々に叫ぶ曲名をウンウン、とうなずきながら聞いて
その中からの1曲を歌ったり(時々、聞いていたにもかかわらずぜんぜん別の曲を歌いだすことも...)、
初日は5弦がボンボンいってしまうのが気に入らず、何度か音にクレームをつけてはいたけれど、
ユーモアを交えてのMCもふんだんにあって、始終楽しそうだっだ。

...イメージしていた人とだいぶ違う。
この人、マスコミが嫌いなだけで、本当に音楽が好きで、ボサノバが好きで、
ただただそれだけなんだなぁとつくづく実感したのだった。

「ジョアンを最初に観た時は、泣いたよ」
と、私と同じジョアン狂いのみなさんからも言われていたため、覚悟しては行ったのに、
始めはなんだか夢見心地で、涙どころじゃなく、本当に、本当に今、あのジョアンが
目の前で歌ってるんだ...と何度何度も自分言い聞かせていくらい。

自分が歌った訳でもないのに、所々記憶がないほどだ(寝てたんじゃないですよ、念のため)。
さすがに、初日のラストに「イパネマの娘」を聴いた時にはボロボロ涙が... 
「これで悔いなく死ねる」。それが私のジョアン初観覧の感想である。

こうして念願叶った私は、5月に帰国。
実は、この前に「どうも今回は本当にジョアンが初来日するらしい」という噂を
ブラジルで聞いていたので、日本へ降り立った私は、まずはそれを確かめたい気持ちでいっぱいだった。
もし本当だったら、またジョアンが観られるのだから!
今年はなんていう当たり年だろう。


さすがに5月では確信は得られなかったが、そのうちそれは事実だと判明。
新聞にもジョアンの写真が大きく掲載されるようになり、あちこちで
「ほら、えーと、なんとかっていうボサノバの偉い人が来るんでしょ?」
と色々な人に言われるようになった。
普段ボサノバなんてよく知らないうちの両親までもが、私が遊びに行くと、
「これ、とっといたよ」と言って、切り抜いた新聞の記事をくれたりした。

多くの人に驚かれたのは、私が全公演4日間を観に行くということだった。
「だって、全部一緒でしょ?」
「こんなおじいさんの歌に1日12000円も払うの?」
「もうブラジルで観たんだから、いいじゃない」...

みんなの顔には思いきり「もったいない!」と書いてあった。
正直言って、私だって最初は財布と相談してどうしようかと思ったのだ。
でも、サンパウロで観た限りでは、2日間、内容は微妙に違っていたし、その日のコンディションや
観客との相性もある。
それに、もしかして途中でなんらかの事情でジョアンが帰国してしまったら、
チケット代金が払い戻されたとしてもそれでは精神的に気がすまない。

どうしても後悔したくない気持ちが強くて、私は散財を覚悟したのだ。
いいや、私にとっては散財ではない。一番のお手本が観られるのだから、これは立派な授業料。
技は教えてもらうもんじゃない、見て盗め!なのだから、うん。

しかし、音楽仲間でもそうそう全日行くという人は見当たらず、毎日違う友人
を誘って行くことにして、チケット手配も完了。あとは当日を待つのみである。。

日本公演の詳しいライブ・レポートは私の別エッセイを参照していただくとして、観客
・(おそらく)関係者一同、肩が凝るほど緊張した1日目、完璧な演奏の2日目、
一番の盛り上がりだった3日目、締めくくりにふさわしい盛り沢山な4日目と、
どの日も素晴らしく、感動的なライブだった。

観終わってから数日は、放心状態。
お手本が素晴らしすぎて、「がんばろう!」と奮起するどころか、自分でギターを弾くのが嫌になり、
ボーッとしていた。
耳にはまだ、あの完璧な音が残っている...
自分の歌やギターを聴いて、それを台なしにしたくなかったのだ。

「ジョアンを最初に観る時人は、夢うつつ、あるいは放心状態、または感涙にむせぶ、腰が抜ける...
といった状態になるのよ」
と、ジョアンを知らない友人に宛てて、その素晴らしさを書いたメールを読み直し、
私は自分で笑ってしまった。

これじゃまるで妖怪である。でも、ある意味、彼は妖怪なのかも。
何をしでかすかわからないけど、たった1人しかいない才能の持ち主であり、天才であり、ボサノバの神様。
それを世界中の人が受け入れてしまうのだ。

最終日には、当時、私のポルトガル語の先生だったブラジル人女性と観に行った。
先生は、この日初めてジョアンのステージを観たのだが、帰り際に
「彼はかたつむりみたいな人ね」と言っていた。

シャイで、マイペース。壊れやすくて、繊細で、突然自分の殻に閉じこもってしまうことがある...
なるほど、本当にかたつむりみたい。なんだか、ジョアンにぴったりだな、と思った。

ボサノバの神様は、日本に来て何を思っただろう。
ラストの日、「みなさんの気持ちは私に届いたよ、ありがとう日本。」
というメッセージを、私たちにくれたジョアン。

私はこれからも、決して掴まえることのできない、天高く流れる雲を追かけるように、ボサノバを求めて行くだろう。
それはどこまで行っても、手が届くことはないかもしれないけれど。。

「ボサノバの神様」2003年

2020年02月03日

CARNAVAL 2003(1-1)

リオのカーニバルへの出場は、一生のうち一度は体験してみたいものの1つだった。
テレビで観るだけでもあの迫力なのだから、自分の足であの会場を歩けたら...!
ろくに踊れもしないくせに「サンバ出場は私の夢の1つなんだ」とあちこちに触れ回っていたら、
チャンスはひょっこりやって来た。
友人の旦那さんが某サンバ・チームのバテリア隊(パーカッション隊)に所属していた関係で、
そのチームに参加させてもらうチャンスに恵まれたのだ。

カーニバルは、毎年陰暦に基づいて決められた4日間に行われる行事で、
エスコーラ・ヂ・サンバと呼ばれる数々のチームがそれぞれにテーマを決めてパレードをする。
皆さんも、テレビのインターナショナルニュースや、浅草のサンバ・カーニバルなど、
ちょっとはご覧になったことがあるのでは?

メディアではセクシーな格好の女性ばかりがクローズアップされているので、
そういう人々の集団が踊り狂っているだけのように思われががちだが、決してそんなことはない。
実はもっともっと深いものなのだ。

カーニバルの衣装は、ファンタジアと呼ばれる。
前述通りほとんど裸同然のようなものから、こんなもの着て踊れるの?というような
着ぐるみのような衣装まで、様々なデザインがある。

しかし、練習にも参加せずに、当日ぶっつけ本番でも出られる人のAla(列)は限られていて、
私が出場させてもらったチームではそのファンタジアは3種類あった。
その中から私たちは、白が基調でフリルやゴールド使いがとてもかわいい、
もちろん露出のぜんぜん激しくない”皇室(宮廷)貴婦人”という名前の衣装を選んだのだった。

さて、当日のチーム自体の集合時間は夜11時。
ところが、ここはブラジル、時間通りにみんなが集まる訳がない。
それを考慮し、プラス1時間して12 時に行けばいいやということで、
まずは友人の家に9時ごろ集合した。

だいぶ早いが、それには2つ訳があった。
まず、1つ目は衣装直しが必要なこと。
衣装には一応、S, M, Lのサイズがあるのだが、同じSでも多少バラつきがあるので、
各自、自分に合わせてそれを直することが必要となる。

衣装はみんな、ファヴェーラ(スラム街)のおばちゃんたちがひとつひとつ手作りしている。
案の定、これも完成が遅れて遅れて、出演当日の午前中にやっと受取ることができた。
だからなのか、遠目にはよく出来てはいるものの、私たちのはものすごく急いで作ったらしく、
よく見るとまだマチ針が刺さってたり、スカートのレースにアリが歩いてたりという状態。
しかも小物であるクツやカサは、私が友人宅へ到着した時にはまだ出来上がっておらず、
結局、すべての衣装セットが揃ったのは当日の夜11時だった。

デザイン画では素敵だった”宮廷婦人”も、いざみんなで着てみたら、大屋政子風...
今いくよくるよ風とも言えようか。こりゃすごい。

これだけゴテゴテしていても、ファンタジアはとても軽くできているので、
はたから見るほどは苦しくはないのだが、問題は気候。
夏だから一揃い着ると、とにかく暑い!!帽子なんて被るとクラクラしそうだった。
これでMAX踊るというのは日頃のトレーニングが必要そうである。
でも、いまさら遅い。私たちは気合いでなんとか乗り切るしかないのだ。

そして早め集合の訳の2つ目は、写真撮影大会をやりたかったこと。
リオは治安が悪いので、いくらカーニバルと言えども、
そうそうカメラをブラブラさせて町なかを歩けない。
出場するとなったら、どこで落とすかもわからないし、落ち着いて写真なんか撮っている暇も
ないかもしれないので、まずはゆっくり安全な家の中でお互いに写真を心ゆくまで撮ろう!
ということなのだ。

ひとしきり写真を撮って満足した私たちは、その格好のまま5人でタクシー2台に分乗し、会場まで。
途中、同じ様な団体に合って、手を振りあったり、真夜中なのに、街はまるで夜の8時ごろ?と
見紛うばかり。なんだかワクワクしてきた!

会場のすぐそばまではタクシーも入れないため、ちょっと前で降りて、そこから待ち合わせ場所へ。
会場の外側が各チームの集合場所になっていて、辺りはきらびらやかな衣装を身にまとった人々で
ごった返していた。目印の郵便局を目指していざ到着したが... 
やっぱり、同じチームの人々は誰もいなかった。

どうも、12時でも早すぎたようである。
よく笑い話で、時間を守るのは日本人とドイツ人だけというけれど、本当にその通りなのだ。
ラテン系にとって、時間はあってないようなもの。私のようなリオ在住の日本人は、
それをブラジル時間と言っていた。
例えば、よく待ち合わせに遅れて来る人のことを「○○さんは、ブラジル時間だよ」という風に。

とりあえず、チームのアレゴリア(山車)を探して進んでみたら、だいぶ行ったところにチーム名が
書かれたTシャツを着た人を発見。
しかし、私たちと同じような衣装を着ている人はどこにも誰もいない。
本当に、私たちは出られるの...?? 
一瞬そんな疑問も頭をよぎったが、○○なはずなのに、そうじゃなかった、なんて事は
ブラジルでは当たり前なので、そのうちみんな来るだろうということで、待つことにした。

こんなこともあろうかと、持って行った新聞紙を広げて座っていたものの、
待てどくらせど、まったく状況に変化なし。

実際にディスフィラール(パレードで行進すること)するのはだいたい2時頃になると聞いていたのに、
私たちの前のアレゴリアはまだ飾り付けの真っ最中。
で、今は何時なの?と、思ったけど、誰も時計を持ってない
(腕時計は身につけてると狙われて危険なので、普段はあまり持って歩いていない)。

それで、現在の時間と何時頃出るのかをスタッフに聞きに行ったら、
「今は夜中の1時で、出演は、全部で8チーム出るうちの7番目で、4時頃」
ということがわかった。

あと3時間もここで待つの?? これには、全員でゲンナリ。
友達のうちの2人は、もうさっさとフランクフルトとビールを買ってきて
飲んで食べて、新聞広げて道ばたで寝てしまった(笑)。

私と他の2人は、ちょっとの間は座って話して待ってたけど、さすがにお腹もすいてきたので、
屋台でなんか買ってこようかってことになり、串刺しのシュハスコ(焼き鳥の牛肉版)と
ガラナ(ブラジルでポピュラーなジンジャエールに似た清涼飲料水)を買って
しばしの夜食タイムとすることにした。

小腹が満たされると人間少しは余裕が出るもので、そのあとはゆっくり廻りを観ながら
その雰囲気を楽しんで、出場までの時間を待つことができそうな気がした。

前にはどんどん飾り付けが完成していくアレゴリアがずらっと縦に並び、
そしてそれぞれの衣装を着た人たちがたくさん集まっていて、すごい人いきれだ。

出演者たち用に屋台...ホットドック、フランクフルト、サウガジーニョ(ブラジルの軽食で、
揚げたコロッケみたいなやつなど色々な種類がある)やジュース売りがたくさん店を並べ、
その脇では少人数のサンバ隊が演奏し、そこにまた輪が出来て人が踊り...もう、ごっちゃごちゃ。

さて、食べ終わっても別段することもないので、話したり、他の衣装の人としゃべったりしながら
やっと3時頃(推定)になったら、目の前のアレゴリアが動きだしたので、
それに合わせて私達も移動を始めた。

(つづく)

CARNAVAL 2003(1-2)

アレゴリアは、ねぶた祭りのねぶたの山車、
またはディズニーランドのエレクトリカルパレードの山車を
10倍位?大きくしたと思ってもらえば良いと思う。
それが1チームにつき5~6台あり、その間あいだを人々が踊り歩くのだ。

実は、このアレゴリアはすべて手動で動いてる。
うしろにエンジンみたいなのが付いているので、少しは補助エンジンになってるのかと思ったら、
それはアレゴリアの装飾ライトのための、発電機だったのだ!
よって、動く時には人が10数人で後ろから原始的にえっちらおっちらと押している。
もちろん、お金のあるチームはエンジンをつけたり、トラクターを後ろにくっつけた形のアレゴリアを
作れるのだが、そんなのは優勝候補のほんの一部だけ。チーム運営もなかなか大変なのだ。
でも、”アレゴリア押し”の人々にもちゃんと揃いの衣装があって、そこまで全部がカーニバル。
決してタダの裏方では終わらないのだ。

しかし、アレゴリアの設計はかなりアバウトと言えよう。
道を移動している途中に、歩道橋みたいなのが一カ所あったのだが、なんとそこに頭がつかえて
通れないということがわかり、急きょてっぺんの冊みたいなのを取り外したりする一幕も。
やっぱりやることがブラジル流。
通ったら、またつければいいやってことで、問題解決なのだ。
日本だったら、高さ制限があって、それをちゃんと守って作るでしょ?
そいういのは、ぜんぜんしないらしい。

そうこうして移動してから、リーダーらしき人からこのへんに並べとかいろいろ指示を受けたものの、
そのあともまた待つこと1時間あまり。
だれも時計を持ってなかったので正確な時間は不明だが、もうわかってもどうしようもないので、
そのまま待ちながら他の衣装の人と写真を撮ったりしてたら、朝の4時、やっとやっと出番が来た。

パレードはサンボードゥロモと呼ばれる、サンバ・カーニバル専用の細長~い会場で行われる。
この約700メートルの距離を約50分かけて踊りながら進むのだ。入口のそばまで来ると、
強烈なライトに照らされた会場が目の前に迫ってきて、さすがに緊張。

アレゴリアの一番高い所に乗る人は、自力では上がれないので、
クレーンみたいなのでつりあげられて乗り、その人がスタンバイして、さあ、いざ出陣!

しかし。実際に会場の入り口を入ったら、お客さんはもうほとんど居なかった。

カーニバルは全部で3日間行われるが、私が出場した初日の土曜日はグループAの日
で、その後の日曜・月曜がグループS(スペシャル)の日。
行進の後、1チームごとに細かい審査があって、毎年グループAの上位2チームと、
グループSの下位2チームが入れ替わることになっている。

私が出場したチームのグループAというのはいわば2軍なので、もともとお客は少ないし、
しかも出番が最後から2番目だったのでお客も帰ってしまったらしいのだ。
なので、「あら、あんまりもう客がいない」と少々残念に思いながら進んで行くと、
背後で、チームの行進スタートを知らせる花火が賑やかに舞い上がった。

それで意気揚々に戻った私達、ぶっつけ本番、見ようみまねのまま進むこと10数分、
サンボードゥロモの真ん中あたりまで見わたせる所まで来ると、そのへんのお客さんは
まだほとんど帰っていないことがわかった。
真ん中はやはりパレードもクライマックスになる場所だからかライトもすごく、
まるで会場全体が闇の中に浮かび上がるようで、たとえようもない綺麗さだった。

「初めてカーニバルに出場した時は、会場に入ったとたんに感極まって泣いたよ」
と、友達は言っていたけれど、そういうのは私はなかった。

テレビで観るよりはそんなに人ごみで窮屈でもなく、今まで考えていたほどの感動もなく...
いや、感激はあるのだが、あまりに夢のようだと、現実感がないのだ。

しかも、とにかく、暑い!足が痛い!

もちろん、ずーっと歩いてるわけじゃなくて、ちょっと進んで立ち止まって、
またちょっと進んで立ち止まって、の繰り返し。
しかし決して踊り止まってはいけないのだ。

私の頭の中には、小さい頃に読んだ童話が蘇った。
確か、新しい靴を汚したくなくて水たまりをパンを踏んで渡って、地獄へ落ちた少女の話。
彼女はその靴で死ぬまで踊るという罰を受けたのだ。
あれ?赤い靴はいてた~の少女の話ってどんなだったけ??
踊り続けることが、こんなにも大変なことだったとは...

しかも、最初始まって7分くらいで、私たちの前のディスフィラールしていた男性1人が
具合が悪くなって倒れてしまい、救急隊員みたいな人が看護に駆け付けていた。

その人はすっごく大きな男性だったのだが、少し離れたところからでもわかるほどに
痙攣していて、血をはいていて、しかも途中で動かなくなってしまった。

その様子を横目で観ながら、しかも踊って追いこすというのは、かなりヘビーなシチュエーションだ。
会場に入ってすぐにそれがあったので、私たちはテンションがちょっと下がってしまって...

いやー 大変だなぁと、これから先のことを考えてキツいのが勝ってしまい、
感激ウルウルどころじゃなかったとも言える。

(つづく)

CARNAVAL 2003(1-3)

パレード全体では時間制限があって、それがグループAは50分(Sは80分)。
その間に終わらないといけないので、各アレゴリアごとに指示する人がついていて、
早く行けとか、もっとゆっくり歩けとか絶えず指示を受ける。

テレビにはそういう人はあまり映ってないけど、その指示する人が、とにかくウルサイのだ。
歌ってないと歌えって言うし、ちょっと疲れたなと思って足を止めると踊れって言いにくるし、
列が乱れると乱すなって言うし。細かい細かい!

私は、踊れと言われても、ちゃんと踊れるわけじゃないので、とにかく動いてろ、ということなのだが。
もう、終わるころにはまるで水浴びしたかのように汗でびっしょり。

最後の門をくぐると、冷たい水をくれる人たちが待っていて、その水のおいしかったこと!
たとえそれに毒が入っていたとしても、みんな飲み干しちゃっただろうと思う。

思い返してみると、私がディスフィラールした47分はあっと言う間だった気もするけど
「ホントしんどかった」、その一言に尽きる。
ただ、私はかなり体力温存して数日前から寝溜めして行ったので、それが功を奏して、
他の人ほどは疲れてなかったかもしれない。

出場が終わったら、あっさりお開き。
私達はまたタクシーで、昨夜集合した友人の家に全員で帰り、
彼女がセットして行ったビデオを観ることにした。

タクシーの運転手の携帯電話でチェックしたところによると、この時、朝の5時14分。
もう白々と夜が明けはじめて、なんだか疲れてるんだけど、頭は妙にはっきりしていて、
爽快な気分だった。

家に着くと早速ビデオを巻き戻し、ライブ中継していた私達のチームの映像をくまなくチェック。
テレビカメラや写真撮影のカメラはものすごく来てたので、一瞬くらいは誰かが写ってるかなと、
誰もが考えていた。

なのに! ...私たちはまったく映っていなかった。

私たちと同じ衣装のブラジル人が一人、一瞬映っただけで、見事に飛ばされていたのだ。
こんなことってあり?!
私達は心底がっかりした。もし誰かが1人でも写っていたら、実際に出場した時より、
みんな興奮してたかもしれないのに!!

よって、ディスフィラールの夢はかなったものの、テレビ出演には至らなかった。
私達のうしろに居た、普通のポロシャツに白いパンツの団体20人ほども
まったく映ってなかったし、やっぱり露出の激しい衣装じゃないとダメなのかも...

そうこうして、7時になったので、それぞれ家に帰宅。
私がステイ先の家に帰った時、家族は全員寝ていて、静まりかえっていた。

とりあえずシャワーを浴びて、その後寝ようかと思ったけど、頭はギンギンにハイで、眠くもない。
しょうがないのでそのまま朝ごはんを食べてたら、起きてきたホストマザーに
「アキコのチームまで...と思ってたんだけど、観てたら途中で寝ちゃったのよね~」
と言われた。
(テレビで観るカーニバルは平面で、やっぱりどうしても同じような感じに見えるから、
あれを一晩観続けるのは至難の技だと私は思う。
でも、実際に側で観るのはまったく違って、素晴らしいチームのパレードはまったく飽きないのだが)

「私たちは写ってなかったの」と簡単に報告した後、私は昼の2時まで寝たのだった。

役目を終えたファンタジアは、汗もかいたし、ものすごいかさばるので、捨てて帰ろうとしたところ、
友人・家族から大ブーイングに合い、しょうがなく郵便で日本へ送った。
軽いので費用も日本円で約2000円程度で済み、私より先にファンタジアは東京へ戻っていた。
でも、これをふたたび着ることはたぶん...ないだろうなあ。

夢の形見として、私のファンタジアはこれからしばらくは、実家のクローゼットで眠り続けるだろう。

(終)CARNAVAL 2003

2020年02月02日

リオ・デビュー(1)

サンバ・カーニバルの後夜祭を、ブラジルでは”灰色の水曜日”と呼ぶ。
それは華やかな祭の終焉を名残り惜しむ1日でもある。

カーニバル出場後、1日置いてカーニバル観戦にも行った私は、完徹続きで
すっかり昼夜逆転の生活になってしまい、その日の夜も、やっと眠れたのが朝の5時ごろ。
結局そのまま11時半ごろまで寝ていたら、
「電話よ」
と起こされ、私の灰色の水曜日は始まった。

ヨタヨタと起き上がって受話器を取ると、それはToca do Viniciusのオーナーからだった。

「今日、夜の7時からカルロス・リラのライブをやるから、その前に3曲だけアキコも歌えるか?」

頭が真っ白というのは、まさにこのことだろう。
Toca do Vinicius、カルロス・リラ、ライブ、歌う... 
色々な言葉がまだ半解凍中の頭の中でゆっくり廻る。
しかし次の瞬間、私はとにかく答えていた。

「Eu posso, posso!(歌えます!)」

Toca do Viniciusというのは、リオのイパネマにある、ボサノバ専門店。
あのボサノバの名曲「イパネマの娘」が生まれたレストラン「Garota de Ipanema」と
同じヴィニシウス・モライス通りにあって、多くのボサノバのCDや楽譜、
関連アーティストの書籍などを販売していて、ボサノバ・ファンなら訪れないわけにはいかない店である。

その店の前では、定期的にオープン・ライブをやっていて、私はそこでライブがやりたくて、
オーナーに自分のCDとプロフィールを持って出演の交渉に行っていたのである。
ちょうどそれがカーニバルの前で、彼は一通りの私の話を熱心に聞いた後、

「これからカーニバルだからちょっと忙しいけど、その後に必ずこのCDを聴いて、
 カーニバルが終わった頃に連絡するよ」

と言ってくれていたのだ。
なので、たぶん返事は3月半ばくらいかなぁと思っていた私は、思ったより早い電話にまずビックリ。
しかも、カルロス・リラの前座で歌わせてもらえるなんて!

カルロス・リラは言わずと知れた、ボサノバ世代の有名なアーティストの1人。
「マリア・ニンゲン」「ジャズの影響」「私の恋人」等々、素敵なボサノバをたくさん書いている
大御所作曲家・歌手である。

寝起きで、もう最初は何がなんだか...という状態ではあっても、
こんなチャンスはめったに来るもんじゃないということだけはちゃんとわかった。

とはいえ、今日の今日、ライブまではあと8時間しかない。
あまりの突然の話で、何を演奏するかは即答できなかった。
しかも、リオに来て2カ月、私はずっとソロ・ギターと編曲のレッスンを受けていて、
いつもやっている弾き語りを充分に練習していなかった。

カルロス・リラを観に来る山のようなお客さんを考えると、ひとりぼっちで異国のステージに立つのは、
さすがに少し不安もあった。
そこで、カルロス・リラのバンドにパーカッションが居たら、その人に私の時も叩いてもらえないかと、
頼んでみたのだ。するとオーナーは
「パーカッショニストは来るから、頼んでみてあげるよ」
と快諾してくれた。

それから、私に
「演奏する曲がダブるといけないので、何の曲をやるか決めたら、電話して」
と言って、ひとまず電話は終わったのだった。

私はなんだか地に足が着いていなかった。
夢じゃないよね?...ドラマみたいに頬をつねってみたいくらいだ。
そのままフラフラと台所に朝ごはんを食べに行くと、最初に電話に出たホストマザーが
ちょうど昨日着た自分のビキニを干しながら、
(リオの一般家庭では、キッチンの奥にランドリーコーナーが併設されている)

「さっきの電話は、Toca do Viniciusのオーナーでしょう?」

と言うので、

「今晩、イパネマでショーをやることになったの」

と言うと、彼女はすっとんきょうな声を上げた。

「嘘でしょ?!本当に?!どこで、どこでやるの?!」

私が笑って、

「嘘じゃないよ! Toca do Viniciusの店の前でやるショーで、
 しかも私はカルロス・リラの前に歌うのよ!」

と言ったら、本当に飛び跳ねてどこかへ行ってしまいそうな勢いで驚いて
私に抱きつき、また悲鳴を上げた。彼女はとっても感激屋さんなのだ。

そしてひとしきり喜んで私から離れると、キッと真剣な顔になり、

「手伝えることがあったら、何でも手伝うから言うのよ!
 早く朝ごはんなんか食べて、練習しなくっちゃ!」

とまるで自分が出るかのように大ハリキリ。
そしてそのあと、近所の親戚や友人に電話をしまくって

「今夜7時から、うちに居る日本人のアキコがショーをやるのよ、観に来て!」

と誘い始めたのだった。


私は、いつもの朝食であるパンとパパイヤを食べ、紅茶を飲みながら、
何を3曲やろうかなざぁと考えていた。

オーナーからは、日本語の歌を2曲、ポルトガル語を1曲という指定だったので、
まず日本語の私の曲は、やり慣れている「ヴィンロンの鳥籠」と「十字架」に、
ポルトガル語はジョビンの「So' emteus bracos」にすることにして、食後に電話して曲名を伝た。
そして夕方6時に店に行くことになった。

それで、それからいざ、練習開始。
合間に、パーカッション用の構成表も書いて、ふと気付いた。

そういやー、MC(曲のおしゃべり)もポルトガル語なのだ。
喋る暇なんてあるかわからないけど、一応その練習もしたりして、ギターを2時間くらい弾いていたら、
前に神経を傷めた指にまた一瞬激痛が走ってしまった。これはマズい...

ちょうど2年前、私はギターの弦のテンションで指先の神経を損傷し、
約1年間、弾く事ができなかったのだ。
その後、テーピングをしてだましだまし練習を再開し、なんとか事なきを得ていたのだが、
ここでまた再発の危険が出てしまった。
一度ぶり返すと、数日はどうしても痛みが引かないから、私は焦った。

急遽、練習は中断。そして、腹を決めた。
もう、こうなったら出演することに意義があると考えよう。
失敗したって、ここはブラジルだし、ここまで来てジタバタしてどうする?
もうリハーサルまでは一切弾かないで、本番は、たとえ痛くても血が出ても、何がなんでも弾く。
もうそれしか道はないのだ。迷う余地はない。

昼ごはんを食べたら、ちょっと昼寝でもしよう...

決心したら、ノミの心臓もちょっと落ち着きすぎなほど落ち着いた。
食事をして、気付いたらもう4時半。
それからシャワーを浴びて、化粧して最後のチェックなどしてたら
もうそんなに時間がなさそうだったので、残念ながら昼寝は断念したのだが。

準備をしていると、自分もバッチリ用意をしたホストマザーが部屋に来て、
「車で店まで連れてってあげるわ」
と言ってくれたのだが、さすがに緊張していて、私は1人になりたかったので、
「色々考えたいし、落ち着きたいから1人で行く。みんなは7時までにきてね」
と言って、彼女もそれを理解してくれたので、1人で出発。


家を出る時、ホストマザーは私の手を取って、

「大丈夫、落ち着いてやるのよ。”ショーをやること”が、一番重要なのよ。
 この間も(私の誕生日パーティの時、たくさん親戚が来て、案の定歌うことになった)
 みんなが、素敵ね、彼女はナラ・レオンみたいだわ!って言ってたんだから。
 うまく行くわよ、大丈夫!」

と言って、送りだしてくれた。

ブラジル人のストレートな優しさがこんなに心に染みたことはない。
嬉しい反面、これでちょっと感傷的になった私は、
緊張と感激と興奮で入り交じった不思議な気分でタクシーに乗った。
家のあるジャルジン・ボタニコ地区から、イパネマまでは車で約15分。
タクシーはラゴア(湖)添いの道を順調に走り始めた。
夕暮れのラゴアは特に美しく、これから私に起こる事は、絶対に素敵な思い出になると思わせてくれた。
大丈夫、大丈夫...

店に着くと、もうPAの用意は始まっていた。
リハをやってもいいよと言われてギターを持って行くと、PAの人がコードを持って待っている。
しかし、私のギターはエレアコ(スピーカーを通して音を出すことのできる、エレクトリック・
アコースティック・ギター)ではなく、普通のアコースティックギター。

「えっ 普通のギターなの?!」

と言われ、そこからが事態は怪しい雲行きになったのだ。

PA担当者はギター用のマイクを何本か出してきて、それをセッティングしてはみるけど、
壊れてるのかそんなのばっかりで、まったく音が拾えない。

一番の問題は、ステージがオープン・ステージだったというこだ。
道ばた(前は道路で、大きなバスや乗用車がたくさん通る)でやる、いわば路上ライブなので、
普通のライブハウスではなんの問題もない”ギターの音をマイクで拾う”という方法では、
対処できないことがわかったのだ。

しかし、私はそれでもなんとかなると思っていた。
ちょうどその時、うしろでパーカッショニストらしき人が、ドラムの準備をしていたので

「私の時も叩いてもらえますか?」
と頼んだら、彼は
「ああ、いいよ!今、セッティングしてるから後で話そう」
と言う。それで安心していたら、それも甘かった。
ふと気付いたら、彼が居ない。

探してもらうと、、家に一度帰ってシャワーを浴びて服を着替えてるって!!
そしてオーナーは、
「7時には必ずショーを始めたいから、それまでに彼が帰ってこなかったら、
 パーカッションもなしでやるか、今回はやめるかのどっちかを選んで」
と私に言った。

私はもちろん、そんなことで出演をあきらめたりしない。

「できればパーカッションが居た方がいいけど、今日ショーをやりたいから、
 7時までに彼が帰ってこなかったらなしでやります」

と返事をした。

(つづく)

リオ・デビュー(2)

カルロス・リラ目当ての客がもう6時半にはどっと押し寄せていて、
この頃には道路にまで人が溢れてすごいことになっていた。

でも、あと10分あったので、店の2階で練習していいかと聞いて上にあがったら、
すぐにまたオーナーが来て、
「パーカッショニストが帰ってきたよ」
と言う。

それで、またあわてて下に降りて、パーカッショニストに構成表をみせて、
大急ぎで、何の楽器で、どんな感じにやってほしいかを伝えて、彼も理解してくれたので、
ほっとしてやっとマイクの前に座ったら、またオーナーが来て、衝撃の一言が発せられたのだ。

「アキコ、今回はギターが聞こえないから1曲だけにしよう」

1曲?! たった1曲?!

これには大ショック。そんな、最初からたった3曲なのに、それを1曲にされてしまうなんて...
カルロス・リラのバンドにはギタリストが他にもう1人いて、その人がエレアコを確か使っていたので
「彼のを借りられませんか?」
と聞いてはみたが、オーナーは
「あのギタリストは私の友達だけど、ミュージシャンは他の人に楽器を貸したがらないし、
もう7時まで5分しかないからやめた方がいい」

と言われてしまった。
オーナーは何がなんでも7時にショーを始めたいのだ。
確かにそれもわかる気がするので、私は1曲だけの出演に全てを託すことにした。
そしてそのまま、まったくリハーサルもせず、ぶっつけ本番がスタートした。

オーナーは、ショーが始まる前に私の紹介を華々しくやってくれて、
今回は3曲やるはずだったんだけど、私のギターがエレアコじゃないので急遽、
1曲だけになっちゃったんだと細やかに説明した。それで、いざ私の出番。

私はギリギリまで何をやるかで迷ったが、日本語の方を歌ってくれとういことだったので
さんざん悩んで、「十字架」を歌うことにした。
どうせギターの音が小さいのなら、しっとりしたおとなしい曲の方がいいかなと
思ったのだ。

歌い始めると案の定、モニターもぜんぜん返って来なくて、ギターは限りなく小さく、
私の声ばっかりガンガンにでっかい状態でのライブになった。
しかし、店の前だけは、まるでアマゾンの深夜の山奥のよう(想像だが)にシーーンと静まり返って、
たとえ誰かのお腹がグ~ッとなっても、ここに居る全員にくまなく聞こえるだろうと思われるほど。

オーナーの紹介の仕方が良かったのだろう、みんなが耳を凝らして真剣に私の歌を聴いてくれたのだ。
そして、終わると、まさに静寂を討ち破る大拍手だった!

たった1曲勝負、自分としては花丸である。「十字架」は自分も好きな曲なので、
ギターはともかく、歌はけっこう満足行くように歌えたし、なんだかみんなも喜んでくれてるし...
こうして私は、なんとか笑顔でステージを降りることができた。

ポルトガル語のボサノバが日本で人気があるのと同じに、日本語のボサノバはブラジルでは大好評。
どこの国でも、おじさんやおばさんはみんな感動してくれるのかもしれないが、
面識のないたくさんのブラジル人の方々に、「よかったわ~」と言ってもらえて、素直に嬉しかった。

ホストマザーは、彼女の姉の家にステイに来たアメリカ人の子、ホストファザーの前妻の子2人、
娘であるサマンタと恋人のパウロ等など、たくさんの親戚・知人を引き連れて来てくれていて、
1年分の喜びの表情を集めたらこんなになるのかっていうくらい喜んで、

「アキコが歌ってる時に、まわりの人たちがみーんな、なんて綺麗なんでしょう!これは誰の曲?
 って口々に言ってたからこれは彼女が作ってるのよ!って教えたのよ!
 そしたら、あらそうなの!ってみんな驚いて、すごく感動して聴いてたわよ!」

と、とっても大袈裟な報告をしてくれた。

ライブが終わった後、オーナーは、
「今回はこんな形になってしまったけど、CDも聴いてすごく気にいったし、
 あなたの曲はとても美しいし、ライブもよかったよ。
 今度エレアコが調達できたら、ちゃんと別の機会を作るからね」

と言ってくれて、ちゃんと後日、その約束を果たしてくれた。

時間を守らない、約束を守らないブラジル人が多い中、彼は例外中の例外だ。
1曲だけの出演に最初は落胆した私だったが、あのまま3曲やっても、間が持たなかったであろうことは、
冷静に考えれば明白な事実である。オーナーの決断は、正しかったのだ。

それで、私の後に今夜の目玉であるカルロス・リラのライブが始まった。
私は一度店の中へ引っ込んで、始まってから店から出てお客になってゆっくり観たかったのだが、
とにかくすごい人だったので、後から出て行って一番前に陣取っては申し訳ないしで、
そのまま店の中から彼のライブを観た。

ライブのあとは、サインを求める人でものすごい状態で、結局私は、もう店から出るに出られず、
そのまま人が引いていくまで店にずっと居ることになった。

もちろん私もカルロス・リラにサインしてもらいたかったし、そのままずっと待って、
やっと人がいなくなってから、サインをもらって、写真を撮ってもらってやっと終了。
カルロス・リラ自身も、汗だくでかなりお疲れの模様だった。

これが私の、バタバタ・リオ・デビューの模様である。
その後はこれをきっかけに他の店に出演したりする機会もあり、
なんだかんだとライブをやらせてもらうことができたのだった。

そして日をあらためた4/8、オーナーは私のソロ・ライブを企画してくれて、
私はギターの師匠であるセリア・ヴァイスにエレアコを借り、
約50分のライブを同じToca do Viniciusの店頭で行わせてもらった。
とにもかくにも、お世話になった方々全員に感謝感謝感謝である。

ブラジルでは、私が不安そうにしていると、よくみんなが

「Tudo vai dar certo. (大丈夫、すべてうまくいくよ)」

と言ってくれた。私は今もこの言葉が大好きだ。

イパネマで自分の曲のライブをやるのは、私の夢だった。
それを語っている時は、誰もが「そりゃあね、できればいいけど」と笑った。
でも、あきらめなければ夢は叶う。
うまく行くと信じていれば、それは本当にうまく行くのだ!

(終)「リオ・デビュー」