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ボサノバの神様

ジョアン・ジルベルトは御歳72、ボサノバの神様と言われる。

その通り、彼があのバチーダ(リズム)を作りだし、あの歌い方を編み出し、
あのハーモニーを紡ぎだした張本人なのだ。
それにアントニオ・カルロス・ジョビンとヴィニシウス・ヂ・モライスが加わって、
「ボサノバ」というジャンルがこの世に確立、登場したと言われている。

残念ながらジョビンやヴィニシウスはすでに他界しており、ジョアンは唯一の生き残りでもある。
しかも、普段はめったに人とは交流せず、世捨て人のような生活をしていて、
ライブもそう頻繁にはやらないし、レコーディングも10年に1度だったりする。
マスコミが嫌いで、一切の取材も受けない。
だから彼がいったいどこでどういう生活をしているのかは、ほとんど知られていないというのが実情だ。

たくさんのボサノバ・アーティストが来日する今日、いつかは彼も来るのでは...という
大勢のボサ・ファンの期待をよそに、ジョアンはずっと来日しなかった。

アメリカやヨーロッパではわりとツアーをやっているとはいっても、その情報を事前に掴んで、
チケットを入手して...となると、一大事。
突然決まるスケジュールに合わせて仕事を休んだりするのは、普通はなかなかできることでもない。
こうして、「早くしないとジョアンも歳だし...」と色々な人に言われつつも、
ジョアン・ファンは皆、ヤキモキするしかなかったのだ。

毎年、「今年は来るかも?」という噂が飛び交うのだが、湧いては消え、ふくらんではポシャる、の繰り返し。
一説には元妻のアストラッド・ジルベルト、ミウシャ、そして娘のベベウを日本に呼んで手厚くもてなし、
廻りから「日本はいいよ!」と吹き込ませているとかしてないとか...
世界でも(本国ブラジルよりも)有名なボサノバ・フリークの地・日本にジョアンが来ないなんて!
ジョビンだって1度は来たのに!! しかし神様の心はなかなか動かせず...
今回の来日は、半ばあきらめかけていた先の朗報だった。

この日本公演より1歩早く、私は2003年4月、ブラジルのサンパウロで初めてジョアンのライブを観て来た。
それまで、私は”動いているジョアン”を観たことが一度もなかったから、サンパウロへ向かう飛行機の中から、もう夢うつつ。

だって、創始者が生きている音楽というのも、そう多くはないだろう。
なんとかして、ライブを観たい、私の人生を変えた音楽を産み出した人の演奏をこの目で見てみたい!
...そう思い続けてきたのだ。
この念力が通じたのか、彼がサンパウロでライブを行ったのは、ビザを延長し決めた帰国日の1週間前だった。

しかし。
「ジョアンのライブを観に行くの!」
と、狂喜乱舞して騒ぐ私に対して、ブラジル人は往々にして冷ややかだった。

日本の友人たちが、こぞって羨ましがったのとは対照的である。
なぜなら、驚いたことに、本国ブラジルではジョアンは私が思うほど崇拝されていなかったからだ。
リオのライブハウスやCDショップで出会った人たちに
「君は、どのアーティストが一番好きなの?」
と聞かれて、私がジョアンの名を上げると、彼らは決まってこう言った。

「彼は作曲家じゃないだろう? 他の人はいないの?」
日本ではこんな事を言われたことは一度もない。
ましてや、作曲家じゃないから、なんて... そんな失礼な!
彼はボサノバの創始者よ!たった1人しかいない、素晴らしいアーティストじゃないの!!

ジョアンは優れたアレンジャー(編曲者)。
ボサノバになる曲を見つけてきては、徹底的にハーモニーを研究して、どんな曲もボサノバにしてしまう。それは作曲家と同じくらい素晴らしい才能だと私は思う... こう言いたいのは山々なれど、
私のポルトガル語能力では、通じたのはわずか10分の1かそこらが限界だろう。
とうてい彼らにはわかってもらうことができず、私は、
「あとは...ジョビン」と答えて、
「そうか、彼の曲は素晴らしいよね!」
という満面の笑みに迎えられるのだった。

彼らの尊敬に値する”アーティスト”というカテゴリーは、ジョビンやカエターノ・クラスの
”シンガーソングライター”たちだけを指すものらしい。
誤解を招かないように付け加えておくが、私はもちろん、ジョビンもカエターノも大好きである。
でも、ジョアンに対する尊敬度も、また特別なものなのだ。
ひとつ感心したのは、多くのブラジル人たちが「ジョアンは作曲家じゃない」
ということをちゃんと知っていたことである。

確かに、ジョアンはわずか数曲しか書いていないし、それらは普段彼が演奏している複雑なコード進行の
曲にくらべると、易しくわかりやすい曲が多い。
意外な気もするが、一応、音楽家の端くれとしての意見を述べさせてもらえるならば、曲を書かない
(あるいは書くのをやめた)気持ちもわかる気ははする。

なぜなら、作曲作業と歌手活動、編曲作業を同時にやるのはとっても大変だからである。
何か1つだけだったら、それに専心できる分、3倍追求できるのだ。
だからこそ、ジョビン達が素晴らしいのはなおさらなのだが...

音楽にそれほど近しい生活をしてない人たちのジョアンに対する認識は、さらにひどかった(苦笑)。
私がリオでホームステイしていた家庭のホストマザーは、
「ジョアン・ジルベルト? あら、まだ生きてるの?」
と言っていたし、ホストファザーにいたっては
「それは誰だ?」という始末。

大学で一緒だったアメリカ人たちは、
「ボサノバはジャズを真似したんだ」「ブラジル音楽はアメリカ音楽が原点だ」
と真顔で言っていた。

なんてことだろう!!ブラジルに来たのに、ブラジル人とも、ブラジルに居る他の外国人とも感覚が違うのだ。
日本に居た時の方が、ボサノバについても、ジョアンについてももっと情報があるし、気持ちを分け合えるなんて...

ボサノバを深めようとしてリオに来た私だが、生活し始めてすぐに、現実を知ることになった。
淡い幻想はガラガラと崩れたという気がした。
それは、4年前に初めてリオを訪れた時にも感じていたことではあるが、実際に生活して、
自分がリオの音楽舞台に足を踏み入れてみて、さらに確信へと変わったのだ。

残念ながら、ボサノバはもう、リオでは生きていない。ごく一部の人達が今もやってはいるが、
主流はMPB(ブラジル・ポピュラー・ミュージック)である。

日本でこんなにボサノバが受け入れられているということを知ったら、
ブラジル人はさぞかし驚くだろうなぁ...ブラジルでは完全に過去の音楽なのだから。

しかし、歌舞伎が大好きで日本へ来た外国人がいても、私は何を聞かれてもわからない。
自国の文化とは灯台元暗しなものだから、仕方ないのだ。
ボサノバ、ボサノバと騒ぐ私だって、邦楽はてんでダメで、邦楽器は何も弾けない。
お茶や花だって正式に習ったことはないし、習字も大嫌いだったし、今になってみると、
三味線やお琴くらいやっておけばよかったなぁ...とちょっぴり後悔。
異国で知る自国の良さとは、まさにこのことだろう。

そんな中、リオに来て1カ月ほど経ったある晩、夕食を食べようと台所に居た私は、
「アキコ、アキコの好きなボサノバの歌手ってなんていう名前だっけ?」
と、部屋に居たホストマザーに、大きな声で呼ばれた。

うーん、私があれだけ言っていても、やっぱり名前もちゃんとは覚えられないらしい...と思いながら、
「ジョアン・ジルベルト~」
と答えつつ、冷蔵庫からトマトのリコッタチーズチーズ詰め(お手伝いさんが作っておいてくれる
ホストファミリーの常備食の1つで、オリーブオイルをかけてを食べる。
オレガノが利いていて、おいしい)を出していると、彼女は驚くような事を言った。

「その人が、テレビに出てるわよ」。
何?! ジョアンがテレビに出てる?!
私はトマトをほっぽり出して彼女の部屋に飛んで行った。
ジョアンがテレビに出るなんて、何かの間違いじゃないの?
まだ信じられずに、ホストマザーの部屋へ駆け込むと、テレビから彼の歌声が流れていた。

それは、「SAMPA」という曲のビデオクリップだった。
あぁ、やっぱりインタビューとか音楽番組じゃないんだ...
ちょっとがっかりしたものの、そうは言っても、ジョアンのビデオクリップだって初めてである。
だいたい、ビデオクリップを撮影していること自体が驚きに値する。
映像のジョアンは、最近の写真よりはかなり若く、なかなかの演技力だった。

食い入るように見る私に、
ホストファザーはベットでビールを飲みながら、呑気に
「この人は何? 有名な人?」...。

それを聞いたホストマザーは、
「もう、知らないの?この人は、ボサノバを創った人なのよ!ねっ」
と私に同意を求めながら、得意げに彼に説明し始めた。

実は、その何日か前に大学で1人20分程度の発表をする授業があって、
ホストマザーはその事前練習につき合ってくれていたのだ。
テーマは自分で決めてよかったので、もちろん”ボサノバ”。
それですっかり概要を理解していた彼女は、ホストファザーよりもだいぶ優位な立場だったのである。
おかげで、私はほろ酔い気分のホストファザーに1から説明するという大変な作業をせずに済んで、
助かったのだが。

こうして観た、たった数分のビデオクリップでさえ、私には感動ものだった。
かなり昔の映像でも、ジョアンがギターを弾いて歌っている。
その姿を観ることができたのだ。あぁ、これがライブだったら!!

...たった1本のギターの弾き語り。なぜにそんなに私がそれを追い求めるのか
は自分でもよくわからない。
でも、ライブへ行きたい!気持ちは、さらにこれで強くなったのだった。

この後の4月25日、26日の2日間、私はサンパウロの「New Tom Brasil」という会場で
ジョアンを観た。
8年前に少し離れた所にある「Tom Brasil」ができた時にも、こけら落としで出演したジョアンは、
今回「New Tom Brasil」の完成にあたり、再び最初の演目として登場することになったのだ。

これも1カ月以上前から噂はあったものの、なかなか詳細情報がわからなくて、
毎日、新聞「Folha de Sao Paulo」のHPをチェックしていたら、やっと公演の約2週間前に
その決定情報が!!

すぐに電話で問い合わせをしたところ、電話予約でクレジット・カード払いができるとのこと、
もちろんすぐに予約。
本当は、ブラジルで電話でカード決済をするのはちょっと勇気がいったのだが、この際、そんなことは言ってられない。

えいや!と思いで決行するに、新しい会場で予約システムがまだちゃんと稼動していなかったらしく、
電話予約にはなんと40分もかかった(涙)。
電話を切った時には、文字どおりクタクタ。
こんなに苦労したのに本当に取れてるのだろか...という一抹の不安がよぎる。
でも、行けばなんとかなるかも...とも思い、深く考えないようにしていたくらいだ。
(この頃、私の思考回路は完全にブラジル方式になっていた)

そして、実際に当日会場へ着いたら着いたで、予約番号とチケットを交換するのに、受付は大混乱!
引き換えに恐ろしく時間がかかり、窓口のガラス窓をバンバン殴る人続出、ほとんどみんなケンカ腰で、
大袈裟じゃなく、暴動が起きそうな雰囲気だった。
やっとのことで会場へ入れたたら、わずか10分で開演。
せっかく全席テーブル席で、色々と食べることも楽しめたはずなのに、文字通り飲まず喰わずでショーは始まったのだった...

そんなことは知ってか知らずか、当のジョアンは、ギターを片手にニコニコして舞台に登場した。
気難しそうな偏屈オヤジを想像していた私には、これがまず衝撃だった。

そこから約2時間半、彼は水も飲まずに歌い続けた。
途中、観客呼び掛けに答えたり、みんなが口々に叫ぶ曲名をウンウン、とうなずきながら聞いて
その中からの1曲を歌ったり(時々、聞いていたにもかかわらずぜんぜん別の曲を歌いだすことも...)、
初日は5弦がボンボンいってしまうのが気に入らず、何度か音にクレームをつけてはいたけれど、
ユーモアを交えてのMCもふんだんにあって、始終楽しそうだっだ。

...イメージしていた人とだいぶ違う。
この人、マスコミが嫌いなだけで、本当に音楽が好きで、ボサノバが好きで、
ただただそれだけなんだなぁとつくづく実感したのだった。

「ジョアンを最初に観た時は、泣いたよ」
と、私と同じジョアン狂いのみなさんからも言われていたため、覚悟しては行ったのに、
始めはなんだか夢見心地で、涙どころじゃなく、本当に、本当に今、あのジョアンが
目の前で歌ってるんだ...と何度何度も自分言い聞かせていくらい。

自分が歌った訳でもないのに、所々記憶がないほどだ(寝てたんじゃないですよ、念のため)。
さすがに、初日のラストに「イパネマの娘」を聴いた時にはボロボロ涙が... 
「これで悔いなく死ねる」。それが私のジョアン初観覧の感想である。

こうして念願叶った私は、5月に帰国。
実は、この前に「どうも今回は本当にジョアンが初来日するらしい」という噂を
ブラジルで聞いていたので、日本へ降り立った私は、まずはそれを確かめたい気持ちでいっぱいだった。
もし本当だったら、またジョアンが観られるのだから!
今年はなんていう当たり年だろう。


さすがに5月では確信は得られなかったが、そのうちそれは事実だと判明。
新聞にもジョアンの写真が大きく掲載されるようになり、あちこちで
「ほら、えーと、なんとかっていうボサノバの偉い人が来るんでしょ?」
と色々な人に言われるようになった。
普段ボサノバなんてよく知らないうちの両親までもが、私が遊びに行くと、
「これ、とっといたよ」と言って、切り抜いた新聞の記事をくれたりした。

多くの人に驚かれたのは、私が全公演4日間を観に行くということだった。
「だって、全部一緒でしょ?」
「こんなおじいさんの歌に1日12000円も払うの?」
「もうブラジルで観たんだから、いいじゃない」...

みんなの顔には思いきり「もったいない!」と書いてあった。
正直言って、私だって最初は財布と相談してどうしようかと思ったのだ。
でも、サンパウロで観た限りでは、2日間、内容は微妙に違っていたし、その日のコンディションや
観客との相性もある。
それに、もしかして途中でなんらかの事情でジョアンが帰国してしまったら、
チケット代金が払い戻されたとしてもそれでは精神的に気がすまない。

どうしても後悔したくない気持ちが強くて、私は散財を覚悟したのだ。
いいや、私にとっては散財ではない。一番のお手本が観られるのだから、これは立派な授業料。
技は教えてもらうもんじゃない、見て盗め!なのだから、うん。

しかし、音楽仲間でもそうそう全日行くという人は見当たらず、毎日違う友人
を誘って行くことにして、チケット手配も完了。あとは当日を待つのみである。。

日本公演の詳しいライブ・レポートは私の別エッセイを参照していただくとして、観客
・(おそらく)関係者一同、肩が凝るほど緊張した1日目、完璧な演奏の2日目、
一番の盛り上がりだった3日目、締めくくりにふさわしい盛り沢山な4日目と、
どの日も素晴らしく、感動的なライブだった。

観終わってから数日は、放心状態。
お手本が素晴らしすぎて、「がんばろう!」と奮起するどころか、自分でギターを弾くのが嫌になり、
ボーッとしていた。
耳にはまだ、あの完璧な音が残っている...
自分の歌やギターを聴いて、それを台なしにしたくなかったのだ。

「ジョアンを最初に観る時人は、夢うつつ、あるいは放心状態、または感涙にむせぶ、腰が抜ける...
といった状態になるのよ」
と、ジョアンを知らない友人に宛てて、その素晴らしさを書いたメールを読み直し、
私は自分で笑ってしまった。

これじゃまるで妖怪である。でも、ある意味、彼は妖怪なのかも。
何をしでかすかわからないけど、たった1人しかいない才能の持ち主であり、天才であり、ボサノバの神様。
それを世界中の人が受け入れてしまうのだ。

最終日には、当時、私のポルトガル語の先生だったブラジル人女性と観に行った。
先生は、この日初めてジョアンのステージを観たのだが、帰り際に
「彼はかたつむりみたいな人ね」と言っていた。

シャイで、マイペース。壊れやすくて、繊細で、突然自分の殻に閉じこもってしまうことがある...
なるほど、本当にかたつむりみたい。なんだか、ジョアンにぴったりだな、と思った。

ボサノバの神様は、日本に来て何を思っただろう。
ラストの日、「みなさんの気持ちは私に届いたよ、ありがとう日本。」
というメッセージを、私たちにくれたジョアン。

私はこれからも、決して掴まえることのできない、天高く流れる雲を追かけるように、ボサノバを求めて行くだろう。
それはどこまで行っても、手が届くことはないかもしれないけれど。。

「ボサノバの神様」2003年

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