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2007年07月26日

英語のその後

4月から通い始めた英語スクールも3分の2が終了し、夏休みになりました。
ここまで来て、思いました。
「このまま通っていても、英語は話せるようにならないな」と。

  あれれ、あんなに乗り気だったのに!
  なーんだ、結局あきらめちゃったの??

...いえいえ、そうではありません(笑)。
通ってみて初めて色々な事がわかった、という事なんです。


「通っても上達しない」と感じた理由は、大きく3つあります。

まず、その1。
【授業のほとんどが生徒同士のディスカッションである】
私の行っていたS校では、1週間に1度、4時間の授業がありましたが、
蓋を開けてみると、そのうちの約3時間弱が生徒同士のディスカッションだったのです。

グループワークが多いことは、事前の体験レッスンでも、説明会でも、承知はしていました。
S校に限らず、なぜかどこの英語スクールでも、グループレッスンは必ずと言っていいほどグループワークがメイン。
そこから逃れるためには、個人レッスンを選ぶしか方法がないような現状だったので、
  ならば仕方が無い、何か1つくらいは良いこともあるのかもしれないから、試してみよう
と、もともと効用には疑問を持ちながらも、今回は目をつぶって受け入れることにしたのですが...

  ビデオを見て、「何について話していたか、みんなでディスカッションして」、
  要約をする前に、「まずはみんなでディスカッションして」、
  プリントを読んで、「何について書かれているか、みんなでディスカッションして」、
  宿題について、「まずはみんなでディスカッションして」、
  ディベートやるから「何を話すかみんなでディスカッションして」...

すべてにおいて、まず生徒同士でディスカッション。それが繰り返されるのです。


100歩譲って、グループワークが有効だとしましょう。
一番の問題は、先生がグループワークを聞いていても、生徒の言い間違いを直さないということです。
私のクラスは人数が少なかったので、3〜4人のグループが2つだけでした。
よって、先生も2つのグループを指導すれば済むものを、廻って来ても私たちの会話を聞いているだけで、こちらが質問しない限りはめったに口を挟んできません。


毎回10数分話をさせられて、さっさと次に進んでしまうのが通常で、
時々ディスカッションの後に
「さっき●●と言っていたけど、これは○○です」
とか、そういう例を2つほど挙げてホワイトボードに書いて説明するのみ。
または、生徒同士に話をさせておいて、グループを廻ることもせず、自分は日誌を書いていたり...ということもありました。
これでは「グループディスカッションって、先生が楽をしたいだけじゃないの?」と思ってしまいます。


最初のうちは、私たち生徒も必死なので、そんなことに思いを馳せる余裕がなかったし、テキストをやったり、用語や文法の説明を受けたりすることも確かにあって、ディスカッション自体の時間も短かったのですが、だんだんと比率が変わり...3カ月目には、気がつけばビデオを観せられて→ディスカッションの繰り返し。。
文法の説明も、そのうち「後でテキストの後ろの説明を読んでおけ」と言われるだけになりました。
結局、ネイティブ相手に会話する=「先生に向かって文章で話す」ことがほとんどないのです。

クラスに慣れ、落ち着いて授業を受けられるようになってくると、
「はて。 私の話しているのって、これで合っているの?」
ということが気になってきます。
多少のウィークポイントの差はあっても、所詮は同じレベルの生徒同士。
よくよく聞いていると他のみんなも間違っていることがたくさんあるのですが、哀しいかな、同じ日本人同士なので間違った英語でも、通じてしまうのが恐いところ...!!
私のメチャクチャな英語を毎回聞かされるクラスメイトも苦行でしょうが、これでは私も自分の英語を矯正することができません。
合ってるのかな?いいのかな?と思いながら話すストレスは、想像以上です。
既に2カ月目に入ったころから、私だけではなくクラスメイトからも
「喋れない同士で喋っても、意味がない」
という不満が、ふつふつと沸き上がってきました。


そして、その2。
【宿題の作文が、訂正されて返ってこない】
毎回毎回出る宿題には、エッセイ(作文)の宿題もありました。
文章量もA4サイズ用紙にいっぱい書かなくてはいけないので、普段から文章を書くのが好きな私でも、このブログのエッセイを書く暇もないほど大変だったにもかかわらず、何たることか、この作文が返却されないのです。
やっとのことで返ってきたと思ったら、最後に数行の先生からのコメントがあるのみ...。
私の文章には、まったく何のチェックもされていません。

   まさか、間違いが1つもなかったの...??? ありえない。

そう思った私は、返却された直後、先生に
「何のチェックもされていないけど、私の文章が間違っていないとは思えません。
 何故、何も訂正されていないのですか?」
と聞いたのですが、
「あぁ、いつもコメントだけ書いているから...」みたいな、ウヤムヤな返答です。
「今度から、間違いを直してください。これでは勉強になりません」
と言うと、
「OK,OK!」
と調子だけは良い返事が返ってきたものの、それからもサッパリ宿題は返却されませんでした。

最後に、その3。
【ただ単に、実践の場を提供しているだけである】
このクラスには「実践英語」という名前がついていて、その名の通り「実践的なコミュニケーション力を習得する」のが売りでした。
しかし前述の通り、間違いの訂正が無い等、あまりにフォローがないため、学校で基礎を復習するとか、正しい英語を話せるようにするとか、そういう事は、実は望めなかったのです。
自分で勉強した事を、試しに来い!っていう所だったようです(説明パンフレットには、そんなことは書いてませんでしたけどね)。
「英語を習いに行く」つもりで入学したのに、実際は「とりあえず英語を話してみる」場所だっただけ...
まぁ一応、話題の提供はしてくれますし、学ぶことがゼロだったとは決して言いませんけど、カリキュラムも実際はかなり違って遂行されていましたし、講師の当たり外れも感じざるを得ませんでした。

◆=========
しかし、胸の内に文句を溜めていてもしょうがありません。
S校では、中間ガイダンスなどで、先生に直接要望を伝える場なども提供してくれていましたので、私達は皆で相談し、遠慮せずに先生に要望を言おう、ということになりました。

  グループワークでの間違いを直してほしい、宿題を返してほしい、
  宿題のチェックをしてほしい、先生と1対1で話す機会を増やして欲しい...

そしてクラスメイトのほぼ全員が、個別ガイダンスで訴えたのです。
でも、

  グループワークは、先生が聞いていれば、誰が間違っているか、
  話せているかどうかはよくわかる。だから有効。

  宿題については、時間内にできることしかフォローできない。
  易しい問題は、いちいち全部チェックしない。

  作文のチェックをしないのは、それがその先生のスタイルだから、変えられない...

  
という回答で各々あしらわれ、おしまいでした。
それでも私は納得がいかなかったので、かなり頑張って要望を言いましたが、講師は自分の正当性を主張するだけ。
私も、もともと流暢に英語が話せる訳ではないので、全部を表現はできないし、結局は丸めこまれたようになって「時間がないから」と、ガイダンスを途中で打ち切られました。

   だから英語ができないのが厭なんじゃないか! だから学校に行ってるのに!!

他のクラスメイトも
「言っても無駄みたいだよね」とあきらめ顔で、私もかなりガッカリしたのでした。


ところが次の週、私は授業の後に1人、先生に呼ばれたのです。
まだ何かあるのかと渋々ついて行くと、先生は満面の笑顔で、
「○○先生(担当講師は2人だったので)とも話し合ったのですが、
 今までの宿題への対応は申し訳なかった。
 これからは出した宿題のチェックは必ずするから」
と、なんと謝られたのです!
「わからないことは、いつでも聞きに来なさい。
 私でも、○○でもいいから、いいね」
...これにはビックリです。
だったら前の週にそう言ってくれたら、どんなにか良かったのに!
これが文化の違いってやつですかね??
なんともキツネにつままれたような気分で、帰宅の途についたのでした。

そして、それから宿題量は激減し、新たに書く作文の宿題も一切出なくなりました。
どうも、フォローできない宿題は出すのを止めようということになったようです。。
安易な解決法です...

しかし、ツワモノ○○先生が提出した5つのエッセイの宿題は、ついに3カ月が過ぎても4つは返却されませんでした。
もう、何を書いたかも忘れちゃいましたよ...(^^;)


◆◆=========
ここまで読むと、なんてひどい英語スクールだろう!と思われるかもしれません。
でも、決してそうではないようですよ。
これでもたぶん、良い方でしょう。

私はスクールを選ぶ際に、ネットでもかなりの情報収集をしました。
これと同じような話は、色々なスクールが抱える問題でもあります。
開講するまで講師が指定できないスクールでは、先生の当たり外れはどうにもできないし、生徒同士で喋らせておいて先生は聞いていない、というのも珍しくありません。


それでも、私がS校にしたのは、それなりの理由と期待があったからです。
NHK教育で「テレビで留学!」というボストン大学の英語学習プログラムをそのまま放送している番組があり、S校がこの授業形式に一番近かったのです。
この授業形式は、私がリオの大学で参加していたポルトガル語プログラムに似ていて、時々番組を観ていた私は、こういう授業をやってくれる英語スクールが日本にないだろうか?と常々思っていたのでした。

しかし、大きな違いがありました。
私が知る限りでは、外国の英語講座では、
 ●グループワークは基本的にしない;常に「先生 対 生徒」です。
 ●間違いはその場で直す:良い先生は、もう一度正しいフレーズを繰り返して生徒に言わせます。
という方針で進められます。
だから、生徒は間違ってもとにかく喋る、そして間違えることが大切で、それを矯正しながら正しい語学(言葉と文法)を習得していく...というプロセスを踏めるのです。

しかしこれは、生徒が「よく喋る」ことが前提で、
日本の場合、授業中に率先して「喋る」ことに抵抗がある場合が多いため、なかなかこの方式は導入しずらいと考えられるようです。
同じレベルの生徒同士で話させる方が緊張もせず、有効だろうと思われるのかもしれません。


そういえば、他の英語スクールに体験に行った時も
「あまりに英語に慣れていないと、質問されても黙って固まってしまう。
 何でもいいからとりあえず話そう!という事ができるか?できないか?
 まずは、その差が大きい。日本人は、まず考えてしまう人が多いので、
 ある程度話せる度胸があるのなら、あまりに下のクラスに入ってしまうと、
 待っている時間が長くてイライラすると思いますよ...」
と言われたことがありました。


私が「英語のスクールが合わない」という話をすると、
「クラスのレベルを下げてもらえば?」
と、何人かの友人知人には、言われました。
私も最初は「身分不相応のクラスに入ってしまったからかな」と思ったのですが、S校に関しては、レベルダウンして解決できる問題ではないようでした。
今のレベルより下げれば、丁寧に基礎から教えてくれるのだったら良いのですけど、そうではなく、「遠慮したり緊張したりして何も話さない人」が集まったクラスになるだけなのです。。
それは、別の意味でストレスな授業でしょう。


今回のクラスでは、皆が「喋る」ので、これに関しては良かったのですが、如何せん、長所=短所で、何でもいいから話すというのは、間違っていても構わず話すということ...
そこが落とし穴でした。
結局、私達はハッタリ英語で良いなら、幾らでも喋れてしまって、そこがネックなのです。
単なるコミュニケーションなら、熱意があれば伝えられるし、ちょっと海外旅行へ行くとか、外国人に道を教えるとか、そんな事は何とでもなってしまう。でも、正しい英語では話せない。
そして、そんな”勢いだけのハッタリ英語”が嫌だったから、英語学校へ行こうと思って、行動を起こしたのに...
なのに、間違いを直してもらえないのでは、通う意味がないのです。


◆◆◆=========
私は今まで、一度も民間の英語スクールに行ったことがありませんでした。
確かにこの数カ月で英語に対する毛嫌い感がなくなったし、負け惜しみではなく(苦笑)、行かなければ良かったとは思っていません。
でも、ちょっと考えてみてください。

  間違った英語で話し続け、間違った英語を聞き続ける...

これがどういうことか??
音楽(ギター)で例えるなら、

  間違ったフォームで弾き続け、綺麗ではない音色を聴き続ける...

ということです。
そう考えたら、ギョッとしました。
ギターだったら、まさに一番上達しない方法です!!
間違ったまま弾き続けるというのは、間違ったままを定着させてしまうことです。
気がついて後で直そうとしても、さらに難しくなります。
もし独学で何とか弾けたとしても、必ずどこかでガラスの天井にぶち当たるのです。
「どうしても、これ以上は上手に弾けない」時に遭遇するか? 身体を壊すか?
どちらが早いか...?? 時間の問題です。

弾けていない同士で、
「これで合ってるかな」「たぶん良いんじゃない?」
「そうかな〜」「いや、けっこう上手いですよ」「そうですか??」
「楽しいのが一番ですからね」「そうですよ、そうですよ」
...なんてやってたら、同じ所をグルグル廻るどころか、間違ったままどんどん突っ走るだけ!!
そのうち誰もアドバイスもしてくれないようになってしまったら...もはやお手上げです。

間違った英語を話し続けていても、身体は壊さないかもしれません。
でも、通じなかったり、思うように表現ができなくて、気持ちは傷ついていくと思うのです。


そして、そう思ったら吹っ切れたのです。
私はこのスクールにこれ以上通うことを、思い切って止めることにしました。


でも、英語の勉強を止めた訳ではありませんよ。
考えた挙げ句...
ギターだったら、やっぱり基礎の基礎に戻るべきでしょう。
  自分には何ができて、何ができないのか。
  どこが空白になっていて、どこを理解したつもりになっているのか。
それらを一度全部、総点検する必要があります。


ならば、文法の基礎を復習することが一番だという結論に辿り着き、今はそれを自宅でやっています。
本当は、基礎を教えてくれる所があればそこで勉強しても良いでしょうけれど、まったく何もかもを復習するというよりも、自分の頭の中で、英文法を系統立てて整理したかったのです。
それには、今まで一度たりとも読んだことのなかった英文法書を、復習しながら読むのがまずは良いだろうと考えました。


例えば、
ものすごく散らかった部屋から、”青いインクの万年筆”を探すことを想像してください。

  確かにどこかにあったはずだけど、どこだったかな...
  ここの引き出しかな? あれ、違うな。
  もしかして、どこかに出かける時に持って行ったかな。だったらカバンの中かな。
  いや、電話の時にメモろうとして、使ったっけ。
  先月はどこかで見かけたんだけどな...
  ...そう思って考えている。

→これが、英語で質問されても、何も答えられない状態です。
 わかるはずなのに、単語が出てこない。えっと、えっと何だっけ...という感じです。

対して、

 これ? あれ、これはボールペンだね。
 じゃあ、これ? 違うね。インクが黒だった。
 これ? あ、これはシャープペンだねぇ。
 でも、書けるなら何でもいいじゃない、とりあえずは!

→これが、ハッタリ英語の場合です。
 黙ってしまうよりはいいかもしれないけど、
 手当たり次第に思い付くものを並べ立て、正確性に欠けます。


綺麗に部屋を掃除して整頓して、どこに何があるのかわかっていればいいのです。
そうすれば、すぐに”青いインクの万年筆”を取り出すことができますよね。
この整理整頓が、今の私には必要だと思ったのです。
もともとある物(語彙)は少ないかもしれないけど、それを一度整理して在庫がわかれば、
何が足りないのかもわかります。
それが出来ていたら、今回の講座も、もう少しは自分なりに活用できたかもしれません。。


もちろん、どんなに散らかった部屋でも、
「私にはどこに何があるのか、何でもわかってるんだ! わはは!」
「片付けちゃうとかえってわかんなくなるんだよね〜」
というタイプの人もいるでしょう。
そういう場合は、それでも良いと思います。
要は、自分に合った方法を見つければ良いのです。

 


英語は、幸い日常生活にかなり溶け込んでいるし、たくさんの教材も情報も揃っていますよね。
ポルトガル語に比べたら、本当に羨ましいくらい...(涙)
実践の場は、ネットでも、旅行でも、格安英会話個人レッスンでも、話したかったらいくらでも後で機会は作れます。そこへ行くまでは、

   まずは正しい英語を聴く! 文法の基礎をしっかり理解する!

のが先決だと、つくづく思いました。
喋るのは、その後です。 
ギターだって、弾けば良いってもんじゃありません。
喋っていれば、そのうち喋れるようになるっていうのは、私は嘘だと思います。
それは、ネイティブの環境ならば可能ということでしょう。
日本語をできる限り遮断して聞かないようにして、日本語は一切話さない、そして言い間違いを直してくれる母親のような人がそばにいつもいない限りは、無理だと思います。


たぶん、英語ができる人は、英語の映画をたくさん見るとか、英語サイトを日常的によく見ているとか、英語の歌が大好きだとか、英語圏の友達や恋人がいるとか、知らず知らずのうちに正しい英語をたくさん聴いて、それを少しずつ自分でも実践しているのでしょう。
私は、意識しないとそれをやらない。
そして、頭の中の英語の統制が取れていない、というところが問題なのです。

◆◆◆◆=========
それにしても、英語スクールをうたっておきながら、「教えてもらえない」とは、まさか思いもしませんでした。
なぜなら、私が初めて真剣に取り組んだ外国語はポルトガル語で、ポルトガル語の初級の場合は、最初から生徒全員が「わからないに決まっている」ので、本当に初歩の初歩から授業をしてくれたからなのです。


英語のように
「このへんは、わかっているでしょう」
と、わかっていないのに、わかったことにされて進むということはありません。
しかも、私はずっとグル−プレッスンでレッスンを受けてきましたが、グループワークなどをさせられたことはほんの数回あったか?? 
覚えていない位ので、もしかしたらなかったかもしれません。
宿題の添削はもちろん、何も直されないで返却されるなんてことはあり得ませんし、週に2回の授業があった時でも、必ず先生は次の授業の時に、添削で真っ赤になった宿題を返却してくれました。
授業中も、言い間違えればその場ですぐ直してくれます(今の個人レッスンの先生も、もちろんそうです)。
だから、私はそれが「語学学校としては当たり前の姿だ」と思っていたのです。


そして、ポルトガル語は需要がないから?か、レッスン料もいたってリーズナブルで、前納しても、長くて3カ月=3〜4万。
対して英語は、星の数ほど程あるスクールの中でも、月謝制にしている良心的な所を探す方が大変です。半年前納のスパンは普通で、むしろ短いくらいです。
今回、ポルトガル語よりもはるかに多い額を払ったのに、まさかクオリティがついて来ないとは...思いもしませんでした。


もちろんポルトガル語にも、良くないスクールはあります。
私も、最初に行ったカルチャーセンターのポルトガル語講座が一番レッスン料が高く、授業もチンタラしていて、1年を無駄にしました。
でもその後は、幸いまわりに学習者をたくさん見つけることができて、評判を聞き、必ずしも営利目的ではない学校...ブラジルに仕事で行く人のために、短期間できちんとした基礎を習得できるような授業を行うNPO法人のような所や、大学の講座などで、優秀な先生から質の良い授業を受けることができたのです。


そして私が感じたもう1つは、英語スクールが完全に「ビジネス」になっていることでした。
スクールも会社ですから、利益がないとやっていけませんよね、それはわかります。
でも、あのレッスン料は、英語に苦手意識を持つ日本人の足元を見ているとしか思えないのです。
問題になったN校もそうですが、3年先までのレッスン料を先払いさせるなんて、狂気の沙汰ですよ。
半年後の自分だって、何をしているかなんて、誰にもわからないでしょう?
それに、あんまり払ってしまうと、学ぶ方も「高いお金を払ったから、できるようになる」とか、そんな夢みたいなことを考えてしまうじゃないですか!


通うことに満足する=趣味なら、それでも良いかもしれません。
でも上達したいなら、本当に必死で自分に合う学校や先生を探し廻って、自ら切り開いて行かないと、満足の行く授業は受けられないのでしょう。
...まぁ、考えてみたら、確かにギターや歌の先生選びには、私も尋常ではないほどの時間も気力も使っています。ポルトガル語の場合は良いほうでした。
英語だけ1回目でうまくいくなんて、甘かったのです。


英語ができる人は、それなりの努力しているのだと、よくわかりました。
でもたぶん、本人ではそれが苦労だとは思っていなくて、また、それを楽しんでできるということが、上達の秘訣なのだとも思います。
最終的には勉強するのは自分。
スクールが手取り足取り喋れる様にしてくれる訳ではありませんしね。


◆◆◆◆◆=========
うーん、
そんな細かいことを考えてたら喋れるようになれないよ!と言う人もいるでしょう。
個人差もあるので、それは否定しません。
でも、細かいことの積み重ねこそが、大切なんです。少なくとも、今の私には。

  毎日時間を決めて、映画や音楽など、自分が興味のある英語に触れて、
  文法は本でちゃんと学び直して、
  実践したくなったら海外に旅行か、短期間でもホームステイに行く
  ...のが、あなたには良いでしょうね。


英語とドイツ語の翻訳家でもある私の音楽の師匠が、私の一通りの話を聞いて言った言葉です。
ハイ。私も今回のことで、そう思いました。


英語について、真剣に考えるきっかけになったこと...
それが今回の収穫でした。
本当の所は、実際に自分で経験してみないと、わからないかもしれないですが(^^;)、
この話が皆さんの学習の参考になれば、尚、幸いです。

2007年07月17日

7月のライブ

月イチのカフェ・ライブです。
お買い物のついでがありましたら、ぜひお立ち寄りくださいませ。

■7月21日(土)
 Cafe' Fouquet's(カフェ・フーケ)
 東京都世田谷区玉川3-17-1 玉川高島屋/本館1F TEL:03-3708-5038
  〜東急田園都市線・大井町線 二子玉川駅より徒歩5分
  ◆出演 柳沢暁子(Vo&Gr)大野裕之(fl)村瀬彰一(Per)
  ◆Live start: 1st)18:00〜  
         2st)19:00〜 
         (それぞれスタ−ト時間の若干前後の可能性有、各回30分)
  ◆Charge: チップ制(お気持ちを専用ボールへどうぞ)
  ◆雨天の際は、ライブスタート時間や演奏時間、演奏場所が変更になる場合があり、
   聴こえにくくなることもございます。 何卒ご了承ください。


◇◇8月は8/26(日)です。

2007年07月07日

Dindi

ジョビンのサンバ・カンサゥンに、「Dindi」という曲があります。
これは、シルビア・テーリスに捧げて創ったと言われていて、
彼らは不倫関係にあったとか、なかったとか、色々な噂もあったりします。
まぁ、それはさておき、私の大好きな曲の1つです。

さて今回、この曲を全部、ちゃんとした日本語訳にしようとしたら、どうも納得のいかない箇所が...
どこかの訳が間違っているのかなぁと思い、ポルトガル語の先生に尋ねてみると、
意外にも、間違っていたのは「合っている」と疑わなかったフレーズ
”Voce nao existe”だったことがわかりました。

これは、直訳すると「あなたは存在しない」となるので、
私は「君はもういない」と訳していたのですが、
先生は、ブラジルでは「違う意味で使う」というのです。
彼女が説明してくれた例は、こんなものでした。


...例えば、小学生の子供がいる夫婦がいて、共働きをしたいのだけど、
子供を預ける場所が見つからない。
すると隣の人が、
「お母さんの会社が終わるまで、うちで面倒を見てあげるから、
 学校が終わったらうちへおいで」と言ってくれる。
でも、毎日では申し訳ないので、時々頼もうかと思ったら、
「そんなこと気にしなくていいから、毎日でも来て構わないから、どうぞどうぞ」
と言ってくれる。そういう時、その人のことを
「Voce nao existe!」と言う、と。

ふ〜ん、なるほど、なるほど。
これって、日本語でも同じ様な表現をしますよね。
「そんな人、いないよ!」


「あんな良い人はいない」とか、「そんな人はいない」とか、
日本語では、”人”を形容する言葉が入ってしまうけれど、
ポルトガル語ではそれが「Voce=あなた」だけで表わされているのでした。
国は違っても、言葉の表現の仕方はとても似ているのだなぁと、ちょっと感動してしまいました。
基本的には「なんて良い人なの!」「信じられない!」という究極の褒め言葉ですが、ネガティブな意味でも使うことがあるそうです。
それも、日本語と同じですね。


たぶん、日常生活の中でこのフレーズを聞いたとしたら、前後の成りゆきで、そのニュアンスがわかったでしょう。
でも恋歌の場合、「あなたはもういない」という解釈が入ることも、過去の思い出にすがる歌も決して珍しくないため、てっきりその手の歌かと早合点してしまいました。

ということで、ここは
「君のような人は他にいないんだ」
という意味だったのです。そうすれば、全体の内容がクリアになります。


私は今回、この部分を「かけがえのない人」と訳しました。


ちなみに、「Dinidi」には、英語の歌詞もあります。
Ray Gilbertoが、原詩とほとんどが一致するような見事な英語作詞をしていて、ジョビンも、アルバム『Terra Brasilis』では英語で歌っています。
ジョビンは生前、英語歌詞をアメリカ人に任せきりにしてしまうと、原詩の内容を無視したブラジルのイメージ...海岸、海、女性、椰子の木、サンバ、コパカバーナ...などのイメージ歌詞にされてしまうこを、とても嫌がっていたようです。
そのため、英語歌詞をつける際には、原詩の内容を損なわないようにということを最優先に、念入りなチェックをしていたとかで、この曲もその努力の賜物といえるでしょう。

英語では「Voce nao existe」の部分は違う表現をしていますが、それもとても素敵です。
下記に、ポルトガル語歌詞と日本語訳、英語歌詞と日本語訳を載せましたので、比べてみてください(^^)。


====================================
【Dindi】

muica: Antonio Carlos Jobim
Letra: Aloysio de Oliveira

Ceu, tao grande e' o ceu
E bando de nuvens que passam ligeiras
Pra onde elas vao
Ah, eu nao sei, nao sei

E o vento que fala nas folhas
Contando as historias que sao de ninguem
Mas que sao minhas
E de voce tambem

Ai, Dindi
Se soubesses o bem que eu te quero
O mundo seria dindi, tudo, Dindi, lindo, Dindi
Ah, Dindi
Se um dia voce for embora me leva contigo, Dindi
Fica, Dindi, olha, Dindi

E as aguas deste rio onde vao
eu nao sei
A minha vida inteira, esperei, esperei
Por voce, Dindi
Que e' a coisa mais linda que existe,
Voce nao existe, dindi,
Olha, Dindi, Adivinha, Dindi,
Deixa, Dindi, que eu te adore, Dindi...


【ジンジ】
作曲:アントニオ・カルロス・ジョビン
作詞:アロイージオ・ヂ・オリベイラ
訳:柳沢暁子
(*下記訳詞の無断転用、掲載はご遠慮下さい*)


空よ、遥かな空よ
足早に流れる雲の群れ
どこへ行くのか 私は知らない

とりとめのない話を 葉に囁く風
それは 僕達の恋物語

あぁ ジンジ もし君が
僕の気持ちをわかってくれたなら
もう何もいらない
あぁ ジンジ もしいつの日か
君が行ってしまうなら
僕も一緒に連れていって
ねぇ、ジンジ ここに居て

この川の水がどこへ流れていくのか
僕は知らない
僕の人生のすべてを捧げて
君を待っていた

ジンジ、君はこの世で一番美しい
かけがえのない人
気づいて、ジンジ
君を愛させておくれ

====================================
【Dindi】

music: Antonio Carlos Jobim
English words by Ray Gilberto

Sky, so vast is the sky
With faraway clouds just wandering by
Where do they go
Oh, I don't know, don't know

Wind that speaks to the leaves
Telling stories that no one believes
Stories of love
belog to you and me

Oh, Dindi
If I only had words I would say
All the beautiful things that I see
When you've with me
Oh my Dindi

Oh, Dindi
Like the song of the wind in the trees
That's how my heart is singing, Dindi
Happy, Dindi
When you've with me

I love you more each day
Yes I do, Yes I do
I'd let you go away
If you'd take me with you

Don't you know, Dindi
I'll be running and searching for you
Like a river that can't find the sea
That would be me
Without you, Dindi


【ジンジ】
作曲:アントニオ・カルロス・ジョビン
英語作詞:レイ・ジルベルト
訳:柳沢暁子
(*下記訳詞の無断転用、掲載はご遠慮下さい*)

空よ、遥かな空よ
あてもなく彷徨う 遠くの雲の群れ
どこへ行くのか 私は知らない

とりとめのない話を 葉に囁く風
それは 僕達の恋物語

あぁ ジンジ 
もし君が僕と一緒にいてくれるなら
見るもの全てが美しく
もう何も言うことはない

あぁ ジンジ 
木立を抜ける風の歌のように
僕の心も歌うんだ
君が一緒にいてくれるなら
僕は幸せだよ、ジンジ

君を愛している 昨日よりも、一昨日よりも
そうなんだ そうなんだ
もし 君が僕を一緒に連れていってくれるなら
君を何処へでも 行かせられるだろう

わかるかい、ジンジ
僕は 君を探して流れる
海に辿りつけない川のよう
それが 君のいない僕なんだ
ジンジ

2007年07月04日

ボサノバ映画『This is BOSSA NOVA』

ボサノバの歴史が映画になったようです。
その時代を生きたアーティストたちの映像と証言で綴るドキュメンタリー映画とのこと、
実は昔、日本スタッフ制作のビデオで「ブラジル音楽」のボサノバ編というのがあって、
(持ってはいるのですが、どこにいったかな...(^^;)
今となってはデッキもないし、簡単には観られませんが...)
それに似たような作品なのかな〜と想像しています。

今までは何冊もの本を読まなければわからなかったことが、
この映画1つでだいたいの概要が掴めるのなら、けっこう良いかも?しれません。
ということで、興味のある方は、下記をご参照くださいませ。


●『This is BOSSA NOVA』
 渋谷QーAXシネマ 7月公開予定
 オフィシャルサイト↓
 http://www.wisepolicy.com/thisisbossanova/

2007年07月02日

ついに、Wii

今、私の家の前では大型家電量販店の○○デンキが建設中で、今月オープンする予定です。
先日、母が遊びに来た際に、目の前の巨大な建物をベランダから繁々(しげしげ)と眺めた彼女は私に、
「ねぇ、お願いがあるんだけど」
と言いました。
何かと思ったら、
「○○デンキが出来たら、Wiiを買ってくれない? お金払うから。」
と言うのです。

「えーっ 売ってないよ、そんなの。
 まだ品薄なんでしょ?」
と答えると、母は首を横に振りました。
「電器屋のオープンなら、必ずあるわよ。だって、目玉商品だもの!
 必ず限定で仕入れているはずよ」

...なるほど。言われてみれば、確かにそうかも。
毎日、○○デンキを見ていた私でも、とうてい考えもつきませんでした。
恐れ入りました。さすがは目のつけ所が違う!!

そして、
「ソフトも一緒にね。ほら、”みんなのスポーツ”みたいのがあるでしょう。
 ゴルフとか、ボーリングとかできるソフト。あれも買って。
 先に遊んでてもいいから。」
と、続けました。
...了解です。
OKすると、母は喜んで帰っていきました。


さて、今度は私が広告チラシをチェックして、並ばなければ!と、意気込んでいると、
わずか数日後。
土曜日の朝10時に、携帯メールが来ました。

見ると、母から...
「Wii買いました!」


きっと、DSを買った時の大型スーパーで、また限定販売をしたのでしょう。
「良かったね」とメールを返すと、数分後に
「つなぎ方がわからない。取り扱い説明書も難しい」
との返事が。
私が行ったところで、電気製品の接続は、私なんぞ母より苦手です。
「頑張れ〜!!」
と妹と共に応援メールをしていると、午後には何とか繋がった様子。
ぱったりメールは来なくなりました。


翌日、電話をすると、Wiiを購入できたのは偶然だったとの事でした。
その日の朝一番で歯医者に行っていた母は、帰りに開店直後の大型スーパーに買い物へ寄ったのです。
目当ての買い物が済んだところで、何か目新しいDSのソフトがないかと、おもちゃ売り場を散策するのが日課になっていた母は、そこでラッキーな看板を見つけました。
レジの脇に、
「Wii 限定10台。 本日、入荷しました」
と、書いてあるではありませんか!

店員に、
「まだ、ありますか〜?」と聞くと、「ええ、ありますよ!」の返事。
「...じゃあ、ください」。
ということで、あっけなく手に入れる事ができたのです。

一緒に例の「みんなのスポーツ」(正確な商品名は違うかも?)も購入し、
その時にハッと思ったのだそうです。
  たいてい最近のゲーム機はメモリーカードがないと実際にプレイできない。
  いつも、もう一度買いに来る事になるから、
  今日はメモリーカードも一緒に買っておこうかしら...

そして店員に、
「あの〜、これもメモリーカードがないと、セーブできないのかしら?」
と聞いてみると、店員は満面の笑顔で、
「あぁ、このソフトはカード無しで大丈夫なんですよ。
 他のは必要なのもありますけどね。
 その辺は、お子さんかお孫さんに聞いてみれば、よくわかると思いますよ!」
と答えたのだそうです。。
母は心で、
「なんで子供か、孫なのよ! やるのは私だ!!」
と叫んだそうです(笑)。


それからなんと今回は、父もWiiでゴルフを楽しんでいるのです。
今まで父は、絶対にコンピューターゲームには触らなかったのに、Wiiは感覚が本物と似ているのが分かりやすいようで、けっこう上手いのだとか。
愛犬パピに
「ワンッ!(もう寝るよ!)」
と吠えられるまで、2人で夜遅くまで熱狂している模様です。

しかしながら、初老夫婦が毎日楽しめるコンピューターゲームを作ってしまう任天堂さんは、やっぱり凄い。
ユーザー層は、子供だけじゃないですよ!
高齢者にも充分的を絞って、イケルと思います。
「30分もやると、汗びっしょり」だそうで、良い運動にもなっているようです。


私も早く遊びに行かなくちゃ〜!